幼児教育を語るひろば

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一期一会 (今を大事に)

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椿(十数年前に大島で苗木を買い求めたもの 2017, 3. 29 写す)


茶道・華道・香道・書道・歌道・柔道・剣道・・・ と、日本文化は「道」の文化です。
中でも茶道は、千利休(1522〜1591年)によって確立された日本文化の代表格です。

利休の有名な教えに、「茶の湯の本義は、家は漏らぬほど、食事は飢えぬほど
にて足ることなり。」という簡素を追求した言葉があります。

小さな茶室で作法を大事にした利休が、大茶会で華々しい宴席を好んだ秀吉と対立したのも頷けます。さび・わびの枯淡な日本的な美的情趣を大切にしたのが、利休の茶道なのです。

一期一会の「一期」は、人の一生と考えたらよいでしょう。一生の中できょうの「一会」は、とても大事な出会いだということです。

私たちが知人・友人と巡り会えたのは、まさに一期一会です。それは、生きているという喜びに通じます。そして今私たちは、人生を真剣勝負の場として生きているのです。

言い換えると、一期一会は今を自覚することです。今が、真剣勝負の場なのです。今を私たちが連続して行けば、人生は生涯を通じて一期一会です。

利休は「いつもこの一杯の茶は、生涯の最後の一杯という心構えで頂きなさい。」と、言いました。私はこの言葉を「出会いを大事にしなさい。」という意味で、受け止めています。

4月は、多くの出会いがあります。新しい出会いを恐れずに前向きで取り組めば、たとえ期待はずれの結果になっても、後悔は残らないと思います。

進学・就職・転勤・転居・・・ それぞれに新しい出会いが待っています。その出会いが、 人であっても事象(新しい環境など)であっても、 一期一会の心で接すれば心配はありません。

今こそ、「今」という時を大事にして頑張りましょう!



忖度 (森友学園問題)

森友学園の問題で、「忖度」という言葉が話題になっています。森友学園の小学校設置認可をめぐり、財務省が学園側に有利となるような忖度をしたかということです。

国会で安倍首相は「そのような忖度は、絶対にしていないことは明らかだ!」と、繰り返し答弁しています。

大阪府の松井知事は、日本維新の会の総会で 「安倍首相は、忖度があったと
はっきり言うべきだ。」  と、述べています。 そして、 「 忖度には、 良い忖度と
やってはいけない忖度がある。」と言います。


「忖度」 とは、他人の気持ちを推し測ることです。「忖」 は人の心を表し、「度」 はそれを測ることです。人の心を推し測るということは、言うは易く行なうは難しです。

勝手に人の心を忖度するのは、かえってその人のためにならない結果を招くことになりかねません。やってはいけない忖度です。

悪智慧に長けている人は、都合よく忖度してもらうように奸智を働かせることさえあります。森友学園の籠池理事長が、そうだったのかどうかは分かりません。でも今回の問題には、やってはいけない忖度が働いたような気がするのは
拭えません。

100万円の寄付問題をはじめ今回の事件では、誰かがウソをついているのでしょう。うまくその場はごまかせても、後からバレてくるのがウソです。

「 1つのウソを通すためには、20ものウソを工夫しなければならない。 」 と、 スウィフト は言います。

一方で忖度を防ぐために、智慧のある人・優れた才能を持っている人は、むやみにそれを人に見せびらかしたりしないと言います。つまり、能ある鷹は爪を隠すのです。

「最悪の敵は、誉めそやす者なり」と、言います。今回の事件の背景には、森友学園の天皇中心の国家主義を基本とした教育理念に、賛同した安倍首相夫妻や多くの政治家の関与があります。

褒められたこと 賛同されたことで、籠池理事長も舞い上がったことは確かなようです。しかしそれが高じて真実が分からなくなり、気づいた時には四面楚歌、支援者たちがサッさと身を引いてしまったのです。

卑怯者は、自己の過失の言い訳をします。潔い人は、必ずそれを人に告白します。子供たちもこの森友学園問題に関心を持っています。1日も早く解決されるように願っています。


卒業は出発点

卒業式の式辞で 「卒業は出発点」 と、話したことがあります。

英語で卒業は graduation と言いますが、grade には「階級」の意味があります。さらに graduate には、次に変化するという意味もあります。つまり、次の階級に進むこと、言い換えれば出発することです。

でも人生は、卒業式だけが出発点ではありません。毎日毎日が出発点のつもりで、進んで行って欲しいと思います。


以前京都の大仙院で頂いた資料に、こんな言葉がありました。

    今こそ出発点

 人生とは毎日が訓練である
 わたくし自身の訓練の場である
 失敗もできる訓練の場である
 生きているを喜ぶ訓練の場である

 今こん幸せを喜ぶこともなく
 いつどこで幸せになれるか
 この喜びをもとに全力で進めよう

 わたくし自身の将来は
 今この瞬間 ここにある
 今ここで頑張らずに いつ頑張る

             (京都大仙院 尾関宗園)



ドストエフスキー(1821〜1881年)は「われわれが不幸なのは、自分が幸福なことを知らないからである。」と、言っています。真の幸福は、豊かな自分の心の中にあるのです。

「頑張る」ということは、「自ら省みて直ければ、千万人といえどもわれ行かん! (孟子)」 の心です。 今こそ出発点です。 力を尽くせば、成らざることは無いの
です。



受験勉強

昨夜10時過ぎ、JR吉祥寺駅北口バス停で終バスを待っていたところ、二人連れの中学生の会話が耳に入ってきました。彼らは、学習塾の数学の問題について話し合っていました。話の様子から彼らは今年度受験するのでは無く、来年度受験するようです。

今年度は受験も終わった頃なので、学習塾は今頃暇だと思っていましたが、どうやら思い違いのようです。

学習塾の目的は、生徒が受験教科の知識を効果的に蓄え、それを必要に応じて受験に利用出来るようにすることです。つまり、受験教科の内容に関わる知識を豊富に蓄えさせることです。

確かに学習塾で勉強すると、知識は蓄えられ、専門化が進み、知識量は豊富になります。でも、子供たちの生活時間はどうなっているのでしょうか?   学校の勉強と学習塾の勉強は、相互に関連し合っているのでしょうか?

関連無ければ、両者の学習はその殆どが深く理解されないまま、あるいは片方が身につかないまま、コマ切れの知識習得になっているのではないでしょうか?

そうなると、 せっかくの勉強も転移不能、 あるいは発展不能に陥る心配があります。

ルソーは「 エミール 」 の中で、12〜15歳の時期の子供にふさわしい教育を次のように述べています。

 12〜15歳は少年時代で、体力も充実してくるのであって、この時期こそ勤労と教訓と学問の時期である。しかし、それまでの感覚を観念に変化させるのは科目を教授することによってではなく、自然現象に注目させることによってである。地理を学ぶ場合のエミールの出発点は、彼が住んでいる町と田舎の別荘であり、また近くの河川や太陽の位置による方角の定め方などである。また磁力についての知識を得るには、エミールに手品師が水盤に浮かんでいるロウ細工のアヒルを巧みに動かすのを観察させなければならない。
 このように12歳から15歳という最も知力が活動する時期においても、教科書はほとんで用いないで、もっぱら経験によって学ぶのである。この時期の少年に推奨する唯一の書物は、ロビンソン・クルーソーである。
 このようにしてエミールは、肉体と精神が共に訓練され、相互に補い合うことが必要で、そのためには晢学者のごとく思考し、農夫のように働かねばならない。エミールの知識の量は少ないが、その知識は本当に彼自身のものであり、中途半端なものは全く存在しないのである。


子供たちに、知識詰め込み教育の愚を説いてもわかりません。それより親たちにルソーの教育論を知って欲しいと願っています。

学習塾での受験勉強が、子供たちの知的能力の発達に役立っていないとは言いません。入学試験にも役立つことでしょう。でも受験が終わったら、せっかく蓄えた知識も忘れ去れてしまうのも事実です。

この時期の子供たちが最もよく学習するのは、自分の必要性や目の前にある事象への興味関心です。塾帰りの子供たちの様子を見て、それらが彼らの生活から離れてしまわないかと心配になりました。



再 教育とは何か?

マスコミでも国会でも、連日大阪の森友学園問題が話題になっています。

 *国有地売却に関わる土地の価格問題。
   *小学校建設予定地の産廃土問題。
   *国と大阪府に提出した建築費の違い。
   *大阪府私学審議会に提出した申請書類の信憑性。
  など。

森友学園に関する疑問は、一向に解明されません。大阪府の松井知事は、森友学園の籠池理事長を「教育者として失格・・・」とまで発言しています。

一時は、安倍首相夫妻・鴻池元防災担当相、他にも多くの人が森友学園の教育を賛美していましたが・・・

森友学園の教育を良しとした背景には、国家崇拝 あるいは国家統制機構としての役割を、森友学園の教育に期待したからではないでしょうか?

マスコミなどの森友学園 あるいは籠池理事長への評価は、このところ益々悪くなってきました。金儲け主義・詐欺師・偽善者・権力欲・独善的・・・  そんな言葉が聞かれます。

今回の森友学園騒動を機に、「教育とは何か?」 その原点に立ち返って考えて見る必要があるようです。


「人間は、教育によって作られる。」 「生まれた時に私たちが持っていなかったもので、大人になって必要となるものは、すべて教育によって与えられる。」

ルソー (1712〜1778年  Jean Jacques Rousseau. ) はそう言います。
教育によって、どういう人間が作られるのでしょうか?

「教育基本法」第1条(教育の目的)では、こう述べています。

教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として
必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければな
らない。


この目的を分析すれば、個人の形成と国民(社会人)の形成という二つの目的があることが分かります。

私たちは個としての人間ではあるが、他面また社会人・市民・職業人・国民としての人間なのです。

つまり 人間形成の目標としては、 個人と国民という二つの側面があるのです。個人と国民の生活の両立は難しく思えますが、決して矛盾するものではありません。もし矛盾があるならば、教育は相反目する人間を作り出すことになってしまいます。


国家主義を第1に掲げる森友学園の教育は、自由と平等を存在の基本とする個人の権利が犯される心配があります。特定の人間像を目指す教育には、教育目的が曲解される危険性が含まれるのです。

森友学園問題を機に、教育とは何か?    なぜ「教育勅語」が廃されたか?  
もう一度考えるチャンスにして欲しいと思います。