幼児教育を語るひろば

幼児教育を語るひろば

春は あけぼの

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 スズラン ( 2018, 4. 22 写す )


春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは。少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。

清少納言の気持ちがよく分かる、この頃の朝の風景です。

4月に学校(幼稚園)を始めると決めたのは誰だか分かりませんが、うまい決めかたをしたものといつも思っています。

穏やかで人々の心もなごむ季節ですし、すべての生命が生き生きと息吹いている様子が感じられます。

「4月新学年度反対」の声があるのも知っています。入学試験が厳冬期と重なり、不都合なことも事実です。

それでも春に新学年がスタートすることで、自分の持っている能力を十分に振るい、困難なことにも負けずに挑戦して行く勇気を自覚します。困難に打ち勝つ、失敗したらやり直す、春は回復力が一番高まる時期でもあるのです。


春は、親しい人と別れたり、新しい人と出会ったり、悲しみと喜びが交錯する季節です。

茶道では、「一期一会」という言葉がよく使われます。一期は一生です。一生の中で今日の出会いは、とても大切な出会いだということです。

私たちが多くの知人・親友と出会えたのは、正に「一期一会」です。 一期一会は、
生きているという実感・喜びに他なりません。

新学年度を機に、子供たちが人生を真剣勝負の場として歩んで行って欲しいと心から願っています。


「一期一会」は、「今」の精神でもあります。この今を、真剣勝負の場としなければならないということでもあるのです。

「今」を私たちが連続して行くならば、生涯「一期一会」ではないでしょうか。




読書嫌い

本屋大賞が発表されました。私は、芥川賞直木賞よりこの賞に親しみを感じます。プロの小説家が選ぶのでは無く、全国の書店員が、一番売りたい本を選ぶ、というところが身近に感じて気に入っているのです。

今年は辻村深月さんの「かがみの孤城」という長編小説です。今日的課題のいじめ問題も描かれているようなので、早速読んでみようと思っています。

翻訳小説部門で受賞した「カラヴァル 深紅色の少女」も話題になっているので、併せて読んでみたいと思います。


「最近の若い人は本を読まない!」という声をよく耳にします。わざわざ本に頼らなくても、様々な情報が簡単に手に入る時代だからでしょうか?

私が若い頃は、勉強も読書が中心でした。
「読書百ぺん義自ずから現る」で、100回繰り返して読めば、難解な内容も自然と分かってくると教えられました。

「100回読む」という教えには、じっくり時間をかけてという読書の心得があります。私の若い頃には、そんな余裕があったのです。

今の世の中は、全てが慌ただしく時間に追われて生活しています。とてもじっくりと、読書に浸る余裕などありません。それに勉強の中心も、読書では無くなってしまったのです。

大学生が「源氏物語はマンガで読んだ」と、堂々と答えていました。事によると、教科書もマンガ化されているのではないでしょうか?


現役時代、学校だよりに読書について私の考えを載せたことがありました。
(以下その要約)

「本を読むなんて、毎日学校で嫌というほどやらされているのに。」と、思うかも知れません。しかしこの場合、私は本を読むことを、「自分で読みたい本を選んで、読むことの楽しむ術を知る。」と、考えたいのです。

現代は、視聴覚媒体による情報伝達の時代と言われます。テレビ・ラジオ・映画・写真・グラフィックなど、目・耳から色々な知識を得ることができます。

それらは作り手が素材を選び、組み立てて送り出します。受け手は、そんなに苦労せずに受け入れています。でも途中で受け止めをやめて、疑問を持ったり・照らし合わせたり・確かめたりする時間的余裕はありません、

確かに見ていて分かりやすく楽ですが、何か受け手側の自分自身が欠落してしまうことに気づきません。

本を読むことは、一語・一句・一節と自分の目で捉え・考え、疑問はさらに質し、
自ら考えることができます。読むことをきっかけに、自分を展開し発展させるのです。





教育格差容認 ?

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    西洋タンポポ(車庫の敷石の間から育ちました)


朝日新聞とベネッセ教育総合研究所が共同で実施した「学校教育に対する保護者の意識調査」の結果が公表されました。

全国の公立小中学校の保護者7400人に、「所得の多い家庭の子どものほうが、よりよい教育を受けられる傾向」についてその是非を尋ねました。

結果は、「当然だ」・「やむをえない」と答えた人が62.3%もいました。今回は4回目の調査ですが、格差容認派は増加の傾向にあります。(04年から4年ごとに調査。前回の調査からは3ポイント以上増え、04年・08年からは6ポイント近い増加。)

ベネッセ教育総合研究所の木村主席研究員は、「 格差を容認する人は経済的に
ゆとりがあり、都市部に住む保護者に多い。こうした保護者の子どもが、私立中学に進学する可能性が高いことが影響しているのではないか。 」 と分析しています。


一方で 『 ユニセフ・ニュース257号 』 に、こんな記事が載っていました。
(特集 「 すべてはひとつ ユニセフのこれからと私たちの役割 」 から )

(前略) 高所得国が41から80ヶ国へ、上位中所得国が27から53ヶ国へと倍増したのです。そして一見豊かになったように見えるこうした国々で貧富の差が生まれており、世代をまたぎ連鎖する根深い貧困が存在することが明らかになってきました。

国内における不平等は、外からは見えづらいものです。たとえ国全体の平均値では前進していても、都市部のスラムや辺境地域に住む家族、何らかの事情でセーフティーネットからこぼれ落ちてしまった家族など、その国の最深部に取り残された子どもたちにまでは豊かさの恩恵が行き届いていない場合があります。

貧困は、大人より、子どもたちに濃い影を落とします。 (後略)


経済大国日本と言えども、教育格差問題は他人事ではありません。これからの
教育の重大課題として受け止めねばなりません。



授業 思いつくままに

前文科省次官の前川喜平氏が、名古屋市立の中学校で授業したことが問題に
なっています。

文科省側は、 前川氏が天下り問題で辞職したことなどを挙げて、 なぜ学校側が同氏を招いたか?  2回に渡ってメールで、講義内容などを問い質しています。

「国家権力による教育現場への介入」・「調査の合理的根拠が乏しい」・「教委(学校)との信頼関係が崩れる」・・・ など、色々と批判が寄せられています。

林文科相は「やや誤解を招きかねない点もあったので注意したが、法的には問題ない。」と、釈明しています。


公立学校に勤める者は、教育公務員です。学校教育は、根源的には常に国民全体の意志・要求・期待に沿って行われなければなりません。従って公教育制度では、法律や条例に規制されるものが多くあることも当然です。

ですから教師は、公教育の担い手、つまり制度の中の一員であるという自覚が求められます。つまり、文科省や教育行政機関と対立するのではなく、信頼関係を
深めなくてはならない関係です。


教育の中立性・独立性は、理想です。でも歴史を振り返ってみると、教育はいつも国家(政治)権力の下で、支配され利用されてきたのが実状です。


教師も専門職であるならば、プロとしての高度な知識や技術を持って授業に臨まなければなりません。然もそれをいつも磨いて、自分のものとして積み上げていく必要があります。それは、厳しい研究と実践によってのみ得られるものなのですが。


最近の教育・人間に関する諸科学の急速な発達は、教育現象や教育活動に大きな影響を与えています。教師が十分にその職能を遂行するためには、 その内容を理解して一般的・基礎的知見をしっかり身につけることが要求されます。

というのは、最近の技術革新に追いつけない教師が出てきたことへの心配もあるのです。


プロの教師は、授業のためには時間をかけ、先手先手と物的・人的環境を整え、
忍耐強く継続してゆるめないで、時には変化と刺激を与え、粘り強く生活化まで
持っていくことが求められます。

学校には、様々な子供が通ってきます。そしてどの子も、 どこか他人とは違う光を放っています。 それぞれの持っている光を十分に放つことができるように教育活動は組織化され、授業が行われなければなりません。

でも学校教育は、集団思考の場合が多いのが普通です。それは子供たちが相互に関わり合い磨き合う場、あるいは仲間意識を育てるための場なのです。

だからと言って、集団の中に個が埋没してしまうような集団であってはなりません。ですから教師は、授業において計画的・効果的に、子供の能力・適正に応じた授業計画を作成することが求められます。

子供は十人十色、一人一人のものの感じ方・思い方・考え方・行い方が違います。それはそれぞれの個人が、人間として成長するための大事な要因なのです。
ですから教師は、集団の中でも個を支える授業を心がけなばなりません。


授業の中で、叱責や体罰は不要です。愛のムチなどありません。罰を加えなければ授業ができないようでは、プロとしての教師失格です。



学びの場

平昌五輪
羽生・宇野両選手が、フィギュア・スケート競技で金と銀のメダルを揃って獲得しました。
多くの人たちが、テレビ中継に釘付けになって応援しました。素晴らしい快挙に、日本中が大興奮です。


学びの場
オリンピックで日本選手が活躍する様子から、子供たちは、様々な刺激や影響を受けていることと推察します。 ついでに、グローバルな文化を自分の目や耳で直接吸収していることでしょう。 

教育は、学校だけで行われているのではないということです。 オリンピックも大事な教育の場になっているのです。つまり子供たちは、人的・物的交渉を持つすべての環境から学んでいるのです。

彼らが所属し生活している社会事象のすべてから、  人間社会の伝統的・文化的すべての行事から、さらには自然界の諸々の事象からも、学びの場は成り立っているのです。

ですから民主主義社会の望ましい成員となるためには、 学校教育の場だけではなく、人生全体を通じてあらゆる場面で、自己の可能性に挑戦する永続的な学習意欲を持つことが強く求められます。

これはすべての子供たちに、いやすべての人間に対する要請です。オリンピック精神にも、通じるものがあるのです。オリンピックは、自己の人間形成に対する強い意欲や態度を啓発する場でもあるからです。


ところで、学びの場は至る所に存在します。見失ってはなりません。そして教育環境を見つけ出す力が求められます。


昔から京都の古美術商の経営者たちは、使用人に本物の高価な掛け軸や陶器に直接触れさせて、目利きの力を養ったと言われます。

教育もそうありたいと思いますが、ただ有名校や学歴だけを追うようでは本末転倒です。


平昌五輪から連想しました。