幼児教育を語るひろば

幼児教育を語るひろば

卒業は出発点

卒業式の式辞で 「卒業は出発点」 と、話したことがあります。

英語で卒業は graduation と言いますが、grade には「階級」の意味があります。さらに graduate には、次に変化するという意味もあります。つまり、次の階級に進むこと、言い換えれば出発することです。

でも人生は、卒業式だけが出発点ではありません。毎日毎日が出発点のつもりで、進んで行って欲しいと思います。


以前京都の大仙院で頂いた資料に、こんな言葉がありました。

    今こそ出発点

 人生とは毎日が訓練である
 わたくし自身の訓練の場である
 失敗もできる訓練の場である
 生きているを喜ぶ訓練の場である

 今こん幸せを喜ぶこともなく
 いつどこで幸せになれるか
 この喜びをもとに全力で進めよう

 わたくし自身の将来は
 今この瞬間 ここにある
 今ここで頑張らずに いつ頑張る

             (京都大仙院 尾関宗園)



ドストエフスキー(1821〜1881年)は「われわれが不幸なのは、自分が幸福なことを知らないからである。」と、言っています。真の幸福は、豊かな自分の心の中にあるのです。

「頑張る」ということは、「自ら省みて直ければ、千万人といえどもわれ行かん! (孟子)」 の心です。 今こそ出発点です。 力を尽くせば、成らざることは無いの
です。



受験勉強

昨夜10時過ぎ、JR吉祥寺駅北口バス停で終バスを待っていたところ、二人連れの中学生の会話が耳に入ってきました。彼らは、学習塾の数学の問題について話し合っていました。話の様子から彼らは今年度受験するのでは無く、来年度受験するようです。

今年度は受験も終わった頃なので、学習塾は今頃暇だと思っていましたが、どうやら思い違いのようです。

学習塾の目的は、生徒が受験教科の知識を効果的に蓄え、それを必要に応じて受験に利用出来るようにすることです。つまり、受験教科の内容に関わる知識を豊富に蓄えさせることです。

確かに学習塾で勉強すると、知識は蓄えられ、専門化が進み、知識量は豊富になります。でも、子供たちの生活時間はどうなっているのでしょうか?   学校の勉強と学習塾の勉強は、相互に関連し合っているのでしょうか?

関連無ければ、両者の学習はその殆どが深く理解されないまま、あるいは片方が身につかないまま、コマ切れの知識習得になっているのではないでしょうか?

そうなると、 せっかくの勉強も転移不能、 あるいは発展不能に陥る心配があります。

ルソーは「 エミール 」 の中で、12〜15歳の時期の子供にふさわしい教育を次のように述べています。

 12〜15歳は少年時代で、体力も充実してくるのであって、この時期こそ勤労と教訓と学問の時期である。しかし、それまでの感覚を観念に変化させるのは科目を教授することによってではなく、自然現象に注目させることによってである。地理を学ぶ場合のエミールの出発点は、彼が住んでいる町と田舎の別荘であり、また近くの河川や太陽の位置による方角の定め方などである。また磁力についての知識を得るには、エミールに手品師が水盤に浮かんでいるロウ細工のアヒルを巧みに動かすのを観察させなければならない。
 このように12歳から15歳という最も知力が活動する時期においても、教科書はほとんで用いないで、もっぱら経験によって学ぶのである。この時期の少年に推奨する唯一の書物は、ロビンソン・クルーソーである。
 このようにしてエミールは、肉体と精神が共に訓練され、相互に補い合うことが必要で、そのためには晢学者のごとく思考し、農夫のように働かねばならない。エミールの知識の量は少ないが、その知識は本当に彼自身のものであり、中途半端なものは全く存在しないのである。


子供たちに、知識詰め込み教育の愚を説いてもわかりません。それより親たちにルソーの教育論を知って欲しいと願っています。

学習塾での受験勉強が、子供たちの知的能力の発達に役立っていないとは言いません。入学試験にも役立つことでしょう。でも受験が終わったら、せっかく蓄えた知識も忘れ去れてしまうのも事実です。

この時期の子供たちが最もよく学習するのは、自分の必要性や目の前にある事象への興味関心です。塾帰りの子供たちの様子を見て、それらが彼らの生活から離れてしまわないかと心配になりました。



再 教育とは何か?

マスコミでも国会でも、連日大阪の森友学園問題が話題になっています。

 *国有地売却に関わる土地の価格問題。
   *小学校建設予定地の産廃土問題。
   *国と大阪府に提出した建築費の違い。
   *大阪府私学審議会に提出した申請書類の信憑性。
  など。

森友学園に関する疑問は、一向に解明されません。大阪府の松井知事は、森友学園の籠池理事長を「教育者として失格・・・」とまで発言しています。

一時は、安倍首相夫妻・鴻池元防災担当相、他にも多くの人が森友学園の教育を賛美していましたが・・・

森友学園の教育を良しとした背景には、国家崇拝 あるいは国家統制機構としての役割を、森友学園の教育に期待したからではないでしょうか?

マスコミなどの森友学園 あるいは籠池理事長への評価は、このところ益々悪くなってきました。金儲け主義・詐欺師・偽善者・権力欲・独善的・・・  そんな言葉が聞かれます。

今回の森友学園騒動を機に、「教育とは何か?」 その原点に立ち返って考えて見る必要があるようです。


「人間は、教育によって作られる。」 「生まれた時に私たちが持っていなかったもので、大人になって必要となるものは、すべて教育によって与えられる。」

ルソー (1712〜1778年  Jean Jacques Rousseau. ) はそう言います。
教育によって、どういう人間が作られるのでしょうか?

「教育基本法」第1条(教育の目的)では、こう述べています。

教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として
必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければな
らない。


この目的を分析すれば、個人の形成と国民(社会人)の形成という二つの目的があることが分かります。

私たちは個としての人間ではあるが、他面また社会人・市民・職業人・国民としての人間なのです。

つまり 人間形成の目標としては、 個人と国民という二つの側面があるのです。個人と国民の生活の両立は難しく思えますが、決して矛盾するものではありません。もし矛盾があるならば、教育は相反目する人間を作り出すことになってしまいます。


国家主義を第1に掲げる森友学園の教育は、自由と平等を存在の基本とする個人の権利が犯される心配があります。特定の人間像を目指す教育には、教育目的が曲解される危険性が含まれるのです。

森友学園問題を機に、教育とは何か?    なぜ「教育勅語」が廃されたか?  
もう一度考えるチャンスにして欲しいと思います。



学習指導要領改訂に思う (3)

カリキュラム・マネジメント
「質も量も充実」・「教育水準を全国的に確保する」との意気込みで、改訂案は提示されました。小学校の英語教科では、3〜6年生の授業時間数が年35コマ増となります。週5日制を否定するような提案です。

それでなくても現場では、すでに授業時間確保のために次のような試みを実践しています。

⚪︎ 午前の授業時間を5時間にする。   ⚪︎ 午後の授業時間を増やす。 
⚪︎ 休み時間・清掃時間・給食時間などを短縮する。
⚪︎ 長期休暇(夏休み・冬休みなど)を短縮する。
⚪︎ 内容が似ている教科を融合して指導する。

文科省も増えた授業時間をどう確保するか例示してはいますが、それも各学校の「カリキュラム・マネジメント」の腕の見せどころだと言います。

英語教科だけが、授業時数を増やす原因ではありません。「主体的・対話的で深い学び」が要求されているわけですから、授業のあり方も見直しが必要です。

加えてグローバル化や人工知能(AI)の発達などへ対応するため、時間割の編成や指導計画の作成など、カリキュラム・マネジメントの出番が多くなります。

教師の働き方も大きく変わります。ただ指導案に沿って授業を進めるだけでは済まなくなります。次のような準備が必要です。

⚪︎ カリキュラム・マネジメントを教師間で共通理解。   ⚪︎ 指導時間の確保。 
⚪︎ プログラミングなど、新しい学習指導のためのスキルアップ。 
⚪︎ 主体的・対話的で深い学びを進めるために、討論やグループ学習の方法を身に
  つける。 
⚪︎ 地域社会などとの連携。(「社会に開かれた教育課程」は、改訂案の基本となる
  考え方。)

教師が多忙になるのは明らかです。従来のように職員会議・学年会議・教材研究・学校事務・部活動・児童(生徒)指導・保護者対応・・・   などに関われる時間は、
大幅に制限されるようになります。

改訂案の完全実施に当たっては、教師自身の学ぶ時間と場が欠かせませんが、
容易ではありません。教師の長時間労働は、益々深刻にならざるを得ません。

最近も長時間労働で自殺者が出たことから、国会でも時間外労働を減らす策が講じられています。ゆとりが無くなれば、改訂案がいくら立派でも、絵に描かれた餅になりかねません。

そのためにも、教師の増員や待遇改善が期待されます。かって大量に採用されたベテラン教師が、どんどん退職している時代です。教職を希望する若者が減っていると聞きます。教育界に優秀な人材が集まらなければ、教育水準を全国的に
確保することも難しくなってしまいます。


ところで、小学校で英語教育は必要なのでしょうか?  子どもたちは、世界三大難語の一つと言われる日本語を、やっと覚えたばかりです。

日本語をあやつる日本人は、英語の習得が不得手と言われます。子どもたちに
とっても、苦手な教科になる心配があります。これから日本語を実用化しようとする矢先の英語学習ですから、日本語を忘れたり英語が嫌いになったりしたら逆効果です。
                                     ー終ー



学習指導要領改訂に思う (2)

幼稚園教育要領の改訂
幼稚園に勤務した経験がある私には、安易に容認しかねる内容を含んでいます。
一番気になるのは評価です。改訂案では、幼児一人ひとりの成長に基づいた「評価の実施」を初めて明記しています。これまでも、指導要録の記録としては位置付けられていましたが・・・

今回の改訂では、知識や技能、思考力・判断力などを、具体的に捉えて評価すると言うのです。そのために、「幼児期の終わりまでに育ってほしい姿」として、10項目ほどあげて、指導時に考慮するように求めています。

10項目には、次のような項目があげられています。

⚪︎ 社会生活との関わり  ⚪︎ 思考力の芽生え  ⚪︎ 自然との関わり・生命の尊重
⚪︎ 数量や図形・標識や文字などへの関心・感覚  ⚪︎ 豊かな感性と表現
  (以下略)

前文では「 我が国と郷土を愛する 」ことに触れ、新たに 「 日常生活の中で、我が国や地域社会における様々な文化や伝統に親しむ 」 との記述が加わり、
そのための指導事項として 「 正月や節句など日本の伝統行事 」 などを列挙
しています。

幼稚園から 「 社会とのつながりの意識や国際理解の意識の芽生えなどが養われるようにする 」と、意気込んでいるのです。発達心理学の立場から言えば、欲張り過ぎではないでしょうか?

一方 評価については、「 他の幼児との比較や一定の基準に対する達成度についての評定によって捉えるものではない 」 と、評価の前提条件を示していますが、それならわざわざ 「評価の実施」 をうたう必要は無いと思いますが?

「 未来社会を支える日本人を、幼児のうちから育てたい! 」 という気持ちは
分かりますが、評価値で子どものお尻を叩くような幼児教育は、ぜひ避けたい
ものです。

ゆとり教育が否定されてから、勉強! 勉強! の声が、より高まってきたように思いますが?  思い過ぎでしょうか?

幼稚園時代から良い成績を取って、良い中学・高校に入って、良い大学に行って、良い会社に就職する。そんな雰囲気が社会全体を覆っているような気がします。

改訂指導要領案を見ていると、そんな雰囲気を反映しているよう気がしてなりません。

学校の指導が行きわたって、日本の子どもたちの成績が良くなる。日本の子どもたちは、諸外国の子どもたちと比べても優秀だ。・・・  だから学校の勉強は、絶対的に重要である! と、ならないでしょうか?


どろんこ遊びやマンガに夢中になる子は悪い子だ!  幼児は計り知れない多様な能力を持っているけど、それが認められない!  そんな心配もよぎります。

もし評価の低い子を 「 だめな子! 」 と 決めつけてしまうと、子どもも だんだん「 だめな子 」と思い込むようになります。

勉強は嫌いでも生活的な面での能力は、どんな子も持っているのです。