幼児教育を語るひろば

幼児教育を語るひろば

子供と言葉

幼い子供たちは、親の真似をしながら回らぬ口で少しずつ言葉を覚えていきます。親が正しいきれいな言葉で語る時、幼兒も正しいきれいな言葉で話します。

間違った言葉では、正しいことは伝えられません。汚い言葉であれば、子供の心もそれに染まってしまいます。

一度覚えてしまった言葉は、大変な苦労をしなければ直るものではありません。

多くの言葉を覚えるよりも、 少しずつでも正しくきれいな言葉を覚えて使うことが大事です。それもことがらや行動に関係付けて覚え使うのが、言葉学習の
大切な過程です。


今子供たちの身の回りに溢れている言葉は、大人が自信を持って子供たちへ伝え継ぎ語り継ぎ得る言葉になっているでしょうか?   子供たちの会話を聞いていると、心配になります。

親子の会話・近所の人たちとの語り合い・友だち同士の言葉のやり取り・テレビやラジオから放送される言葉・・・ どれも子供たちの言葉の基礎作りとなります。

それによって、子供たちが正しい言葉で話すか?    きれいな言葉を使うか?  
分かれ道になってしまうのです。


岩波書店発行の「 広辞苑 」が、10年ぶりに改版されました(第7版)。約1万項目が追加されました。

現在日本語として定着したと考えられる言葉や、定着すると考えられる言葉が多く含まれています。

広辞苑の編集者たちは、「 ことばは自由だ 」・「 ことばは変化する 」 と言います。それも事実です。

でも私たちは、先祖が使い磨き込んだ美しい日本語を、大事にすることを忘れてはなりません。



謹賀新年

 
平和を願って (原爆ドーム・2017年)
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初詣 ( 厳島神社・2017年 )

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初詣 ( 身延山久遠寺・2013年 )
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初詣 ( 浅草 金竜山浅草寺・2015年 )


    今年の誓い
① 健康第一に努める
② ボランティア活動参加(武蔵野ユネスコ協会の活動を主に)
③ 教え子や友人たちとの交流を盛んに



再び エミールから

教育はなぜ必要なのでしょうか?  
ルソーは「エミール」の中でこう述べています。
「子供に教えるべき学問は、一つしか無い。即ち人間の義務を知ることだ。」 と。

人間の精神を解き放ち、自由を説いた人がこのように考えていることは、私たちに深い思いを抱かせます。

今の世の中、権利ばかり主張して義務を尽くさない人を多く見かけます。いずれが主であり従であるかは断定できませんが、義務を尽くさなければ権利も主張できないはずです。

ルソーはさらにこう言います。

「植物は栽培によって作られ、人は教育によって作られる。」
「生まれた時に私たちが持っていなかったもので大人になって必要となるものは、すべて教育によって与えられる。」

作られる人間とは、どんな人間でしょうか?  また、大人になって必要なものとは何でしょうか?


ルソーが理想に掲げた教育は、政治や経済など人間そのものとは別のものに役立つ人間ではなく、人間性の豊かな自己のためにのみ役立つ主体的人間の形成です。

でも私たちが現実に受けている教育では、子供の発達段階や個人差を考えない、論理主義や学問体系を重視した教育内容がまかり通っています。

ルソーはこれを批判し、「エミール」の中で特に子供に注目して教育論を展開しています。

つまり従来の教育は、子供のうちに大人を求めていて、大人になる前に子供がどんなものであったかを考えない教育だったと言うのです。


エミールには、こんなことが書かれています。

「大人になるまでは、子供は子供であることを自然は望んでいる。この順序を私たちが転倒させたりすると、熟しきらない風味の無い、すぐに腐ってしまう速成果実を作ってしまう。私たちは、幼い博士と老い込んだ少年を持つことになる。
子供には、子供特有の物の見方・考え方・感じ方があるものだ。それに変えて、私たち大人の物の見方・考え方を押し付けるくらい愚かしく無分別なことはない。
だから私には、10歳の子供に判断力を要求するくらいなら、むしろ子供たちに5ピエ(約160cm)の身長を求めた方がましに思える。
実際そんな年頃の子供に理性があったとしても、何の役に立とう?  理性は馬のくつわのようなものだ。そして子供にくつわはいらない。」

「自然は子供の身体を鍛え成長させるために、種々の手段を持っているのであって、これに逆らうべきでは無い。
子供が行きたがっている時に、じっとしておれ! と強制してはならないし、また逆に、彼がじっとしていたい時に、行け! と強制するのもいけない。
子供たちの意志が、私たちの過誤のために損なわれない限りは、子供たちとて無益なことを望むものでは無い。
子供たちの跳んだり跳ねたりする無意味に見える運動も、すべて彼らの身体を作るために必要なものなのだ。


ルソーは「真理は与えられるものではなく、自分で発見すべきもの。」 と、主張しています。



今の子供は・・・

吉祥寺駅からコミュニティー・バスに乗車して帰宅途中の出来事です。私が乗車した時は、すでにどの席も埋まっていて空席はありません。

制服を着たおとなしそうな男の子が、すでに乗車して座席に座っていました。
一見して私立小学校の子供と分かります。

後から80代と見える老婆が乗車してきました。 男の子が席を譲るかな?  
と思って見ていましたが、その気配は全くありません。

優先席でも席を譲らない若者の話をよく耳にします。今の子供たちは、弱者に席を譲ることをどう考えているのでしょうか?


現役時代、「学校便り」にこんな文を載せたことがあります。(このブログでも紹介したことがあります)

「今の子供は・・・」の次に、どのような言葉を入れたらよいでしょうか?

「今の子供はひ弱だ。」
「今の子供はわがままだ。」  
「今の子供は、人に頼りすぎる。」

と、否定的な言葉を入れたらピッタリする時代かも知れません。

しかし子供の側から考えると、十分に動きまわり、遊びまわり、仲間が集まって自分たちの創意を働かせて遊びを工夫したり、ルールを決めて年長の子が年少の子をリードしたり、それぞれの力を出し切って遊ぶ場や機会が、無くなってしまっているのです。

街中も、危険が増えてきました。子供たちは外出する機会も奪われてしまいました。ですから子供たちは、家で独りゲームを楽しむようになりました。

親たちも子供が外で遊びまわって危険にさらされたり、喧嘩をしてトラブルを持ち込んだり、服を汚したり怪我をしたりするよりも、おとなしく家で過ごしてくれる方が、手間がかからないし安心です。それが良い子だと思う親もいます。

中には子供の欲求を先取りして、何でも用意したり与えたりする親もいます。
そんな親は妙に物分りがよく、子供のわがままを許したり、子供との葛藤を避けたりします。

「今の子供は・・・」の次に、大人はどうしたらよいのでしょうか?

もっと子供自身が活動する場や主役になって行動する場を与え、社会的な責任を自覚できる子供にしましょう!  家に閉じ込めないで外に連れ出して、社会性を育てましょう!



遊びが大切なわけ

わが家の周辺も宅地化が進み、それと共に子供の数も増えてきました。 裏手にある公園でも、元気に遊ぶ子供の姿が見られるようになりました。

幼児期の 「遊び」 について、きょうはフレーベル (1792〜1852年・ドイツの教育者・ 「幼稚園教育の父」 と言われる) の 「人間の教育」 から引用して説明します。

遊びは、幼児期の生活そのものです。フレーベルも「遊びは、幼児期における生活の最高の階段である。」と言います。

子供は、遊んでいる時も頭を使います。体も動かします。それらは成長を支える行動です。

理屈っぽく言えば、 遊びは幼児が自己の内面を自ら自由に表現したものです。必要と要求に応じて、自己の内面を外に現したものです。

遊びは、 幼児期における子供の最も純粋な精神的生産物です。人間の内に秘められた本能的で理想的なあり方が、行動に現れたものなのです。

遊びは、 それ自身において喜びであり、 自由であり、満足であり、 また平静でもあります。

遊びは外界と平和であり、 他の人にもそれは伝わります。 遊びはまた、 全ての善なるものが生じる源泉です。

子供は周囲に気をつけながら、 疲れるまで飽きずに遊ぶことができます。 このことは、自分の喜びを求めると共に、他人のことも気遣う、根気のある落ち着いた人間性を育みます。

フレーベルは、「子供が遊びに没頭した後、 疲れて良く眠る様子は、この時期における子供の生活の中で最も美しい現象ではないだろうか。」 と言っています。

幼児期の遊びには、このような意味があります。単なるイタズラでは無いのです。だから親は、遊びを奨励することはあっても、妨害してはなりません。特に 冷静さ・洞察力は、遊びを通して養われます。


一人の人間の生涯は、幼児期の生活 即ちよく遊んだかどうかで決まります。

 ・純潔だったか,  汚れたものだったか ?
 ・温和だったか,  粗暴だったか ?
 ・平穏だったか,  波風が多かったか ?
 ・勤勉だったか,  怠慢だったか ?
 ・功績が多かったか,  少なかったか ?
 ・創造的だったか,  破壊的だったか ?
 ・平和を好んだか,  争いをもたらしたか ?

子供が成長した後、父母に対して・家族に対して・兄弟姉妹に対して
・社会や他人に対して・自然や神に対して・・・
いかなる態度を取るようになるか ?

子供個々の素質によって違いはあるものの、根本的には幼児期における生活(遊び)の仕方によって定まるのです。


  遊びをせんとや 生まれけむ
  戯れせんとや 生まれけむ
  遊ぶ子供の 声聞けば
  我が身さへこそ 揺がれる

                                    (梁塵秘抄)



 *体調不良だったので、ブログを休んでいました。