幼児教育を語るひろば

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子どもにおける法則の観念の発達過程 (3)

第3期は、10〜11歳頃から始まります。法則の普遍性は確立されてきますが、必然性は減少します。

「なぜ水は下方に流れるのに、なぜ煙は上へのぼるのか?」と尋ねると、子どもは「重いものは落ち、軽いものはのぼる。」と答えます。
(これは確かに普遍的法則です)

さらに 「なぜそうなのか?」 と尋ねると、もうどう答えてよいかわかりません。幼い子どもは、そのために精神的理由を考え出しますが、年長の子どもは途方にくれます。つまり10〜11歳以降に、精神的必然性は論理的必然性となるのです。

法則の観念の発達を、物理的環境の直接的作用によって説明することは出来ません。法則の観念は、原因や実在の観念と同じように、大人にはそれほどでもないのですが子どもには縁遠いものなのです。

コップの水の中に小石を入れて水位が上がる現象を観察させると、幼い子どもは「小石が重いからだ」 と言います。年長の子どもは「小石が太いから(かさがあるから)だ」 と言います。

子どもの思考は社会的でなく、自己中心的であり、自閉的思考と論理的思考の中間にあります。同じ年齢でも子どもは、ある点に関してはアニミズム的、人工論的または力動論的で、別の点に関しては全く違う見方をします。

法則の精神的必然性の感情は、法則の正確な認識が少しでも存在する前に生じます。まず始めに物理的経験と内的感情との融合が観察されます。

子どもが発見するもっとも原始的な法則の内容は、「条件反射」と「運動的予感」が提供したものだけから成っています。

子どもは成長に伴い自己中心性が徐々に減退して、社会化が進歩します。もろもろの観点が客観化され、相互的と見られるようになります。

自然そのものの中にあるいかなるものも、子どもに必然性の観念を与えることはありません。直接的知覚にとっては、自然は気まぐれに満ちており、数多くの例外を含んでいます。 子どもが、 自然法則の普遍性を認めないのもそのため
です。

子どもの「月が人の後についてくるのは、そうするように強いられているから。」というような答えは、論理的というよりはるかに精神的な意味を持っている。


経験が理性を形づくり、理性が経験を形づくると言われます。実在と理性の間には、相対的独立の他に相互依存があります。従って知識の構成においては、事物からの影響に由来する部分と、知識の要請に由来する部分とを区別するのは難しいのです。

ピアジェは「船の浮遊」現象から、子どもの論理と子どもの因果的説明とのあいだに存在する関係を分析して、次のようにまとめています。

法則と説明のあいだには、限りのない相互作用がある。第1段階では、法則が説明を支配するが、第2段階では、説明が法則を支配する。第3段階では、合法性がふたたび自由の身となり、説明は事実の紆余曲折を辿らざるを得なくなる。第4段階で、ついに両者の調和が実現する。

時にこのような話題を取り上げるのも、頭の活性化に役立ちます。  ( 終 )



子どもにおける法則の観念の発達過程 (2)

「ピアジェ・子どもの因果関係の認識」から。

5歳から8歳の子どもは、太陽は自分の好きなところへ好きなときにゆけるかとたずねられると、つねに肯定的な答えをする。太陽がそうしないのは「もうちょっと長く照らなければならない」からであり、「昼間は照っていなければならないから」である。
月がどこかへいってしまわないのは「命令しているのは月ではないから」であり、雲がどこへもゆけないのは「ぼくたちに道を示しているから」である。 など。


こう考えるのは、「自然法則があるとしても、それは物体が物理的に決定されているからではない。物体は、もし望むなら、法則を免れることができるのである。自然法則が効力をもつのは、物体が従順であるからに過ぎない。」 と、ピアジェは言います。

雲と天体の運動に関する子どもの説明には、人工論とアニミズムの結びつきがあります。雲や天体の動きを、ある程度の自発的運動と捉えています。でも、固有運動と他律運動の区別は出来ません。

子どもは、雲も天体も生きていると思っています。神様や精神的な強制に従っていると同時に、それ自体の自発性にももとづいていると見なしています。

ピアジェはこう言っています。

第1期では、法則の必然性は全面的に精神的であり、物理的必然性は、この精神的必然性のいわば影のごときものです。すなわち、自然という主人の力と権威に由来しているに過ぎません。

第2期では(7〜8歳から11〜12歳の間)、次のような2つの過程が観察されます。1つは、精神的必然性と物理的決定論が分化します。もう1つは、法則が一般的となります。

例えば水や雲の運動は、かなり早くから全面的に機械論的な原因に還元されます。「水は傾斜を下ることしか出来ないし、雲は風があると進まざるを得ない。」 などがそうです。

11〜12歳までは、依然 数多くの自然法則が精神的なものと見なされています。例えば太陽や月の運動は、純粋な精神的法則に従っていると信じられて
います。

その他、出来事の一部分だけが決定論に従うとされ、自然法則全体のもっとも
一般的な側面は精神的なものにとどまっています。

例えば子どもは、雨の発生と雲の運動が全面的に物理的な過程に由来することは知っているのですが、相変わらず、雲が湧くのは雨を降らせるためであり、雨が降るのは、「お庭のためだ」と主張し、目的論はなかなか消滅しません。  
(つづく)



子どもにおける法則の観念の発達過程 (1)

きょうは少し理屈っぽい話です。(認知症の予防になるのでは・・・)

はじめに、子どもの発達について触れておきます。

幼児期(5歳頃まで)の思考の特徴は、何と言っても自己中心的であることです。何事も自分中心に、また自分の経験をもとにして考えます。自分と他人、主観と客観の区別がまだはっきりしません。

つまり自分以外の立場から自分を考察することや、物事の相対関係を理解することが困難です。だから決まり(法則)の観念も未発達な段階です。

しつけは幼児期から始まりますが、大人が認めることが善で禁止することが悪と、他律的な理解に留まります。

児童期(6〜12歳頃)になると、記憶能力も発達します。でもこの頃は、与えられたものをそのまま機械的に記憶しています。小学校高学年になると言語や思考の発達に伴って、論理的な記憶が出来るようになります。

小学校低学年の頃は、まだ自己中心的な考え方が残っています。然し中学年に
なると、次第に自分の立場を離れて、物事を普遍的な立場から見るようになります。そして抽象的・論理的な思考力が芽生えてきます。

このような子どもの発達のアウトラインを抑えて、本題に入ることにします。


「子どもにおける法則の観念の発達は、3つの時期に区別することが出来る。」 と、ピアジェ ( Jean Piaget ・ 1896 〜 1980 年・スイスの心理学者・実験的
臨床法により、子どもの知能や思考の発達過程を明らかにした。) は言います。

これらの時期は、それぞれ 必然性および普遍性との特定の関係を 特徴として
持っています。

( 以下「ピアジェ・子どもの因果関係の認識・岸田 秀訳・明治図書刊 」を参照 )

第1期(7〜8歳頃まで)では、普遍性は存在しません。必然性の方は、精神的です。物理的決定論(物理的環境の影響に起因する考え方)と、社会的義務の観念とが切り離されていないからです。

第2期(7〜8歳から11〜12歳頃)では、この2つの型の必然性が分化し、一方では普遍性が構成されます。

第3期(10〜11歳以降)では、普遍性が達成され、物理的決定論が論理的必然性と重ね合わされます。精神的必然性の発達の終着点です。 (つづく)


 

死は易く 生は難し

いじめや不当労働を苦にした自殺が、後を絶ちません。自殺をする人に、 「命を大切にしよう!」 と言うのは簡単ですが、止めることは出来ません。

苦しみから逃れる術をいくら説いても、慰めにはなっても解決策にはなりません。それに自殺者の心の奥までは、他人には計り知れません。

従来も自殺を防ぐ手立ては、色々と考えられてきました。特に環境は人を変える力があるので、自殺を考える人の環境を改善する工夫や努力は、試みられてきました。

それでも自殺者は、増える傾向です。 何故でしょうか?

自殺者を責める気持ちはありませんが、彼らは、一般論ですが「世の中は非情だ。救いが無い!」 という先入観を抱いています。その先入観に縛られて、苦しみ悩むことが多いようです。

苦しみや悩みを解決する手段は、冷静になって探すと身の回りにいっぱいあります。先入観が邪魔して見えないだけなのですが・・・

中国・北宋時代に活躍した司馬温公の、少年時代のエピソードです。

 温公は他の子どもたちと一緒に、大きな水がめに乗って遊んでいました。ところが、1人の子どもが、誤って水がめの中に落ちてしまいました。子どもたちは、どうしてその子を救おうかと、あわてふためいています。
 だが、温公は少しも騒がずに、大きな石を拾って来て水がめを割り、水を流して中の子どもを救ったのです。
 (「ひろさちやの般若心経88講」 より)

自殺を考えたとしても、先入観を捨てて、思い切って頭を空っぽにすれば、意外といい知恵が湧いてきます。いじめや不当労働を苦にする前に、水がめを割ってわが身の環境を変えてみましょう。

苦しみは、耐えるものではありません。耐えていても解決しせん。他人の知恵や慰めも、役に立ちません。自分で今の環境を壊すか、それともそこから逃れるかです。

死ぬのは簡単ですが、生きるのは難しいのが現実です。でも生きていれば、必ず生きて来たことに感謝する時がやってきます。
やはり 「命を大切にしよう!」 という言葉しかありませんが・・・



幼児教育はなぜ必要か?

ユニセフニュース251号に、「保育園・幼稚園は、子どもの成長に必要な場所。」という特集記事がありました。 同紙が強調しているのは、乳幼児期は、人生における「かけがえのない最初の6年間」ということです。

人間の脳の神経細胞は驚くべき速さで接合が生成され、子どもたちの脳は誕生から6歳までに飛躍的に発達すると言われます。

好奇心を満たす刺激や知識、情緒、社会性の発達に配慮したケアと教育を受けることで、子どもたちはその後の人生において大きな可能性を発揮することができます。

さらに同紙は、乳幼児期の教育への投資の拡大を訴えています。

保育や就学前教育で恩恵を受けるのは子どもたちだけではありません。乳幼児期の教育への投資が社会全体への利益還元をもたらすことは、2000年にノーベル経済学賞を受賞したアメリカ合衆国シカゴ大学のジェームス・ヘックマン博士の研究でも明らかにされています。

また、同博士の調査によれば、幼児期の体験が、その後の学業成績や成人後の収入、社会的行動(協調性・忍耐力・人とのかかわりなど)へ大きな影響があることが分かっています。日本でも、「三つ子の魂百まで」という諺があります。


幼児教育の父と言われるフレーベル(1782〜1852年)は、彼の著書「人間の教育」の中でこう述べています。

人間の発達段階は、それぞれの時期に応じて一定の役目があり、みな同じように大事である。然し、幼児期は特に大事と言わなければならない。

この時期は、自然や人間の営みを介して、身の回りの事象や事物を観察して、その内部や本質を解明し理解するための出発点となる。

幼児は、日毎に心身共に成長・発達し、物事の道理や特性を正確に捉えるようになる。事象とそれを取り巻く空間・時間との関係や、事象相互間の関係に気づくようにもなる。

言語能力が発達して、物事を正しい言葉で表現できるようになる。
 などと。


いま日本では、保育園の待機児童問題が深刻な話題になっています。国の未来を担う子どもたち全てに、幼児教育を受ける場を確保してあげるのが、私たち大人の務めです。