幼児教育を語るひろば

幼児教育を語るひろば

笠地蔵

連日寒い日が続きます。先週大雪に見舞われた東京ですが、予報では明日の夜もまた雪とのことです。

この寒さは異常かな?  と思いましたが、長い年月を振り返ってみると、繰り返えされている気象現象です。


園長時代にも,厳しい寒さが続いた年がありました。
私は寒さに震えていた年長さんたちに、「笠地蔵」の読み聞かせをしました。

「心の優しいおじいさんとおばあさんがいました。二人はたいそう貧乏でしたが、 それでも仲良く暮らしておりました。  さてその日は、 雪の降る大晦日でした。」

子供たちはすでに知っている話なのですが、 私の声に引き寄せられるように
聞き入っていました。『「笠はいりませんか。こんな雪の日にはぴったりの笠ですよ。」 道行く人に声をかけても、笠は一つも売れません。』

子供たちも不安そうで、笠が売れるのを期待しているのがよく分かります。

『 しょんぼりとおじいさんが雪道を歩いて帰ると、村の入り口で石のお地蔵さんが頭に雪をのせて、寒そうに立っている姿が目に入りました。』

「 笠をかぶせてやるんだよ。」 と、声に出して言う子がいます。

読みが進むにつれて、子供たちの表情がとても優しく穏やかになって行きました。瞳がキラキラと、美しく輝いているように見えます。

『 「おじいさん、明日はお餅の無いお正月になりそうですね。」 と、おばあさんが言いました。』

『 その晩のことです。「 うんとこどっこい!  うんとこどっこい! 」 』  ここまできたら、子供たちも 「 うんとこどっこい!  うんとこどっこい! 」  の大合唱になりました。

雪地蔵の話と子供たちの心が、共感し合ったひと時です。
読み聞かせの後、子供たちは元気に園庭へ飛び出して行きました。


 IMG_4818_convert_20180131113135.jpg
  裏の公園の雪景色 ( 2018, 1. 23 写す )



続 子供と言葉

「 声は人なり 」 と言います。子供に話をする時は、聞きにくい声・力の弱い声・単調な声・・・ は禁物です。どんな大事な話でも、子供たちは聞く耳を持ちません。子供は正直ですから、大人のように我慢して聞くということはないのです。

声は天性ですから、悪声を美声にすることはできません。無理に猫なで声で話すとか、気に入られるような声を出すとかは不要です。

声は人なりで、声は心の表れなのです。子供は本能的に、自分に好意を持って接してくれているのか?  それとも敵なのか?  見分けます。つまり相手の声によって、信頼できる人かどうかを判断しているのです。

だから子供との信頼関係が、子供にとって魅力のある声になるのです。


テレビの芸能番組を見ていると、タレントがくずれた発声や訛った発音を意図的にしています。その方が人気が出るし、ギャラも沢山貰えるようです。

子供も見ていますから、すぐに真似をします。芸能番組に正しくはっきりした発声や、さわやかで歯切れの良い発音を求めるのは酷なことでしょうが、せめてメリハリのはっきりしないくずれた言葉を使うのは避けて欲しいと思います。

話術とは、話の仕方・話し方の技術です。話術の原則の一つは、相手の理解程度に即した言葉を選んで使うということです。子供相手の場合特に大事なことです。

話し言葉には同音語(公園・講演・後援・・・ など)類音語(委員・議員や病院・美容院など)が沢山あります。日本語の特徴でもあり、聞き間違えしやすい言葉です。
抽象的な言葉を使う時は、特に注意する必要があります。

幼い子供たちには、擬音語(わんわん・しくしく・ざわざわ・・・ など)や擬態語(ぴかり・うろうろ・ころり・・・ など)を上手に使って話すようにします。


会話の機能は次の3点です。
  ① 自己表現
  ② 伝達
  ③ 人間関係

私たちは、自分の考えや感情を言葉を仲立ちとして相手に伝えます。でも言葉だけではなかなか伝わりません。それ以外に、表情や身振り手振り、話の場面や雰囲気なども、話の内容を伝える有力な手段となります。心が通い合っている関係の人とは、言葉が不要な時もあります。

伝達手段としての言葉はもちろん大切ですが、何よりも話し手と聞き手の人間関係が大事なのです。


子供は、心から信頼している人・本当に尊敬している人・自分の味方になってくれる人に対しては、その人の話を積極的に真剣に聞こうとします。



子供と言葉

幼い子供たちは、親の真似をしながら回らぬ口で少しずつ言葉を覚えていきます。親が正しいきれいな言葉で語る時、幼兒も正しいきれいな言葉で話します。

間違った言葉では、正しいことは伝えられません。汚い言葉であれば、子供の心もそれに染まってしまいます。

一度覚えてしまった言葉は、大変な苦労をしなければ直るものではありません。

多くの言葉を覚えるよりも、 少しずつでも正しくきれいな言葉を覚えて使うことが大事です。それもことがらや行動に関係付けて覚え使うのが、言葉学習の
大切な過程です。


今子供たちの身の回りに溢れている言葉は、大人が自信を持って子供たちへ伝え継ぎ語り継ぎ得る言葉になっているでしょうか?   子供たちの会話を聞いていると、心配になります。

親子の会話・近所の人たちとの語り合い・友だち同士の言葉のやり取り・テレビやラジオから放送される言葉・・・ どれも子供たちの言葉の基礎作りとなります。

それによって、子供たちが正しい言葉で話すか?    きれいな言葉を使うか?  
分かれ道になってしまうのです。


岩波書店発行の「 広辞苑 」が、10年ぶりに改版されました(第7版)。約1万項目が追加されました。

現在日本語として定着したと考えられる言葉や、定着すると考えられる言葉が多く含まれています。

広辞苑の編集者たちは、「 ことばは自由だ 」・「 ことばは変化する 」 と言います。それも事実です。

でも私たちは、先祖が使い磨き込んだ美しい日本語を、大事にすることを忘れてはなりません。



謹賀新年

 
平和を願って (原爆ドーム・2017年)
IMG_4077_convert_20171230122751.jpg
初詣 ( 厳島神社・2017年 )

IMG_2223_convert_20130530161138.jpg
初詣 ( 身延山久遠寺・2013年 )
IMG_2557_convert_20140124110936.jpg
初詣 ( 浅草 金竜山浅草寺・2015年 )


    今年の誓い
① 健康第一に努める
② ボランティア活動参加(武蔵野ユネスコ協会の活動を主に)
③ 教え子や友人たちとの交流を盛んに



再び エミールから

教育はなぜ必要なのでしょうか?  
ルソーは「エミール」の中でこう述べています。
「子供に教えるべき学問は、一つしか無い。即ち人間の義務を知ることだ。」 と。

人間の精神を解き放ち、自由を説いた人がこのように考えていることは、私たちに深い思いを抱かせます。

今の世の中、権利ばかり主張して義務を尽くさない人を多く見かけます。いずれが主であり従であるかは断定できませんが、義務を尽くさなければ権利も主張できないはずです。

ルソーはさらにこう言います。

「植物は栽培によって作られ、人は教育によって作られる。」
「生まれた時に私たちが持っていなかったもので大人になって必要となるものは、すべて教育によって与えられる。」

作られる人間とは、どんな人間でしょうか?  また、大人になって必要なものとは何でしょうか?


ルソーが理想に掲げた教育は、政治や経済など人間そのものとは別のものに役立つ人間ではなく、人間性の豊かな自己のためにのみ役立つ主体的人間の形成です。

でも私たちが現実に受けている教育では、子供の発達段階や個人差を考えない、論理主義や学問体系を重視した教育内容がまかり通っています。

ルソーはこれを批判し、「エミール」の中で特に子供に注目して教育論を展開しています。

つまり従来の教育は、子供のうちに大人を求めていて、大人になる前に子供がどんなものであったかを考えない教育だったと言うのです。


エミールには、こんなことが書かれています。

「大人になるまでは、子供は子供であることを自然は望んでいる。この順序を私たちが転倒させたりすると、熟しきらない風味の無い、すぐに腐ってしまう速成果実を作ってしまう。私たちは、幼い博士と老い込んだ少年を持つことになる。
子供には、子供特有の物の見方・考え方・感じ方があるものだ。それに変えて、私たち大人の物の見方・考え方を押し付けるくらい愚かしく無分別なことはない。
だから私には、10歳の子供に判断力を要求するくらいなら、むしろ子供たちに5ピエ(約160cm)の身長を求めた方がましに思える。
実際そんな年頃の子供に理性があったとしても、何の役に立とう?  理性は馬のくつわのようなものだ。そして子供にくつわはいらない。」

「自然は子供の身体を鍛え成長させるために、種々の手段を持っているのであって、これに逆らうべきでは無い。
子供が行きたがっている時に、じっとしておれ! と強制してはならないし、また逆に、彼がじっとしていたい時に、行け! と強制するのもいけない。
子供たちの意志が、私たちの過誤のために損なわれない限りは、子供たちとて無益なことを望むものでは無い。
子供たちの跳んだり跳ねたりする無意味に見える運動も、すべて彼らの身体を作るために必要なものなのだ。


ルソーは「真理は与えられるものではなく、自分で発見すべきもの。」 と、主張しています。