幼児教育を語るひろば

幼児教育を語るひろば

再び エミールから

教育はなぜ必要なのでしょうか?  
ルソーは「エミール」の中でこう述べています。
「子供に教えるべき学問は、一つしか無い。即ち人間の義務を知ることだ。」 と。

人間の精神を解き放ち、自由を説いた人がこのように考えていることは、私たちに深い思いを抱かせます。

今の世の中、権利ばかり主張して義務を尽くさない人を多く見かけます。いずれが主であり従であるかは断定できませんが、義務を尽くさなければ権利も主張できないはずです。

ルソーはさらにこう言います。

「植物は栽培によって作られ、人は教育によって作られる。」
「生まれた時に私たちが持っていなかったもので大人になって必要となるものは、すべて教育によって与えられる。」

作られる人間とは、どんな人間でしょうか?  また、大人になって必要なものとは何でしょうか?


ルソーが理想に掲げた教育は、政治や経済など人間そのものとは別のものに役立つ人間ではなく、人間性の豊かな自己のためにのみ役立つ主体的人間の形成です。

でも私たちが現実に受けている教育では、子供の発達段階や個人差を考えない、論理主義や学問体系を重視した教育内容がまかり通っています。

ルソーはこれを批判し、「エミール」の中で特に子供に注目して教育論を展開しています。

つまり従来の教育は、子供のうちに大人を求めていて、大人になる前に子供がどんなものであったかを考えない教育だったと言うのです。


エミールには、こんなことが書かれています。

「大人になるまでは、子供は子供であることを自然は望んでいる。この順序を私たちが転倒させたりすると、熟しきらない風味の無い、すぐに腐ってしまう速成果実を作ってしまう。私たちは、幼い博士と老い込んだ少年を持つことになる。
子供には、子供特有の物の見方・考え方・感じ方があるものだ。それに変えて、私たち大人の物の見方・考え方を押し付けるくらい愚かしく無分別なことはない。
だから私には、10歳の子供に判断力を要求するくらいなら、むしろ子供たちに5ピエ(約160cm)の身長を求めた方がましに思える。
実際そんな年頃の子供に理性があったとしても、何の役に立とう?  理性は馬のくつわのようなものだ。そして子供にくつわはいらない。」

「自然は子供の身体を鍛え成長させるために、種々の手段を持っているのであって、これに逆らうべきでは無い。
子供が行きたがっている時に、じっとしておれ! と強制してはならないし、また逆に、彼がじっとしていたい時に、行け! と強制するのもいけない。
子供たちの意志が、私たちの過誤のために損なわれない限りは、子供たちとて無益なことを望むものでは無い。
子供たちの跳んだり跳ねたりする無意味に見える運動も、すべて彼らの身体を作るために必要なものなのだ。


ルソーは「真理は与えられるものではなく、自分で発見すべきもの。」 と、主張しています。



今の子供は・・・

吉祥寺駅からコミュニティー・バスに乗車して帰宅途中の出来事です。私が乗車した時は、すでにどの席も埋まっていて空席はありません。

制服を着たおとなしそうな男の子が、すでに乗車して座席に座っていました。
一見して私立小学校の子供と分かります。

後から80代と見える老婆が乗車してきました。 男の子が席を譲るかな?  
と思って見ていましたが、その気配は全くありません。

優先席でも席を譲らない若者の話をよく耳にします。今の子供たちは、弱者に席を譲ることをどう考えているのでしょうか?


現役時代、「学校便り」にこんな文を載せたことがあります。(このブログでも紹介したことがあります)

「今の子供は・・・」の次に、どのような言葉を入れたらよいでしょうか?

「今の子供はひ弱だ。」
「今の子供はわがままだ。」  
「今の子供は、人に頼りすぎる。」

と、否定的な言葉を入れたらピッタリする時代かも知れません。

しかし子供の側から考えると、十分に動きまわり、遊びまわり、仲間が集まって自分たちの創意を働かせて遊びを工夫したり、ルールを決めて年長の子が年少の子をリードしたり、それぞれの力を出し切って遊ぶ場や機会が、無くなってしまっているのです。

街中も、危険が増えてきました。子供たちは外出する機会も奪われてしまいました。ですから子供たちは、家で独りゲームを楽しむようになりました。

親たちも子供が外で遊びまわって危険にさらされたり、喧嘩をしてトラブルを持ち込んだり、服を汚したり怪我をしたりするよりも、おとなしく家で過ごしてくれる方が、手間がかからないし安心です。それが良い子だと思う親もいます。

中には子供の欲求を先取りして、何でも用意したり与えたりする親もいます。
そんな親は妙に物分りがよく、子供のわがままを許したり、子供との葛藤を避けたりします。

「今の子供は・・・」の次に、大人はどうしたらよいのでしょうか?

もっと子供自身が活動する場や主役になって行動する場を与え、社会的な責任を自覚できる子供にしましょう!  家に閉じ込めないで外に連れ出して、社会性を育てましょう!



遊びが大切なわけ

わが家の周辺も宅地化が進み、それと共に子供の数も増えてきました。 裏手にある公園でも、元気に遊ぶ子供の姿が見られるようになりました。

幼児期の 「遊び」 について、きょうはフレーベル (1792〜1852年・ドイツの教育者・ 「幼稚園教育の父」 と言われる) の 「人間の教育」 から引用して説明します。

遊びは、幼児期の生活そのものです。フレーベルも「遊びは、幼児期における生活の最高の階段である。」と言います。

子供は、遊んでいる時も頭を使います。体も動かします。それらは成長を支える行動です。

理屈っぽく言えば、 遊びは幼児が自己の内面を自ら自由に表現したものです。必要と要求に応じて、自己の内面を外に現したものです。

遊びは、 幼児期における子供の最も純粋な精神的生産物です。人間の内に秘められた本能的で理想的なあり方が、行動に現れたものなのです。

遊びは、 それ自身において喜びであり、 自由であり、満足であり、 また平静でもあります。

遊びは外界と平和であり、 他の人にもそれは伝わります。 遊びはまた、 全ての善なるものが生じる源泉です。

子供は周囲に気をつけながら、 疲れるまで飽きずに遊ぶことができます。 このことは、自分の喜びを求めると共に、他人のことも気遣う、根気のある落ち着いた人間性を育みます。

フレーベルは、「子供が遊びに没頭した後、 疲れて良く眠る様子は、この時期における子供の生活の中で最も美しい現象ではないだろうか。」 と言っています。

幼児期の遊びには、このような意味があります。単なるイタズラでは無いのです。だから親は、遊びを奨励することはあっても、妨害してはなりません。特に 冷静さ・洞察力は、遊びを通して養われます。


一人の人間の生涯は、幼児期の生活 即ちよく遊んだかどうかで決まります。

 ・純潔だったか,  汚れたものだったか ?
 ・温和だったか,  粗暴だったか ?
 ・平穏だったか,  波風が多かったか ?
 ・勤勉だったか,  怠慢だったか ?
 ・功績が多かったか,  少なかったか ?
 ・創造的だったか,  破壊的だったか ?
 ・平和を好んだか,  争いをもたらしたか ?

子供が成長した後、父母に対して・家族に対して・兄弟姉妹に対して
・社会や他人に対して・自然や神に対して・・・
いかなる態度を取るようになるか ?

子供個々の素質によって違いはあるものの、根本的には幼児期における生活(遊び)の仕方によって定まるのです。


  遊びをせんとや 生まれけむ
  戯れせんとや 生まれけむ
  遊ぶ子供の 声聞けば
  我が身さへこそ 揺がれる

                                    (梁塵秘抄)



 *体調不良だったので、ブログを休んでいました。



文月


サボテン ( 2017, 6. 29 写す )
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ユリ ( 2017, 6. 30 写す )

きょうから7月です。    光陰矢の如し!    歳月人を待たず! 
今年も半分が過ぎました。

昔は7月を「文月(ふづき)」と言いました。七夕の頃、本の虫干しをしたのでこう呼ばれるようになったと言われます。別説では、稲の穂が育つ時期、即ち「穂含月(ほふみづき)」から転じたとも言われます。

いずれにしても旧暦ですから、今の暦なら8月のことです。7月は旧暦なら6月ですから、「水無月(みなつき)」です。

梅雨の季節なのに、「水が無い月」とはどういうことでしょうか? 
どの田にも水がある月なので「水月」と言われたのが、「みなつき」になったと言います。他にも田の仕事を皆し尽くしたので、「皆仕尽月(みなしづき)」=「みなつき」になったという説もあります。

7月の行事といえば、先ず「七夕」・「盆」・「中元」などを思い浮かべます。
ところで「中元」は、よく分からぬままに品物を遣り取りしていました。

昔 中国では、「上元(1月15日)」・「中元(7月15日)」・「下元(10月15日)」と、天の神様を祭る日がありました。「元」には初めの意味があって、1年を3区分した初日に当たります。吉日の元旦が、年に3回あることになります。

中元で贈り物をするようになったのは、室町時代からだと言われます。盆の行事と一緒になって、感謝の気持ちを表したことに因ります。また商人は、盆と正月が決算期だったので、お得意様に贈り物をするようになりました。


7月の思い出として個人的に忘れられないのは、十数年前の京都祇園の「山鉾行列」見物です。当日(7月17日)は、朝から晴れて暑い日でした。

辻廻しを見物しようと思って、宿で手配してくれた河原町通りから御池通りに曲がる交差点近くで、行列が通る2時間ほど前から待ちました。でも暑さのため、待っているうちにだんだんと気分が悪くなってきました。

どうにか山鉾行列は見物できましたが、とうとうガマンできなくなって近くの病院に駆け込みました。今で言う熱中症になったのです。疫病を祓う行事なのに、病院で半日厄介になってしまいました。忘れられません!


いまわが家では、真っ白なサボテンと真っ赤なユリが、競い合って咲いています。どちらも鉢栽培なので、室内に持ち込んで鑑賞しています。

「白勝て! 赤勝て!」ではありませんが、紅白が競うのは、源平合戦に由来するようです。白は源氏の旗印、赤は平家の旗印です。

オリオン座の三ツ星で右下の青白い星はリゲル、「源氏星」と言われます。右上のペテルギュウースは、赤い色なので「平家星」です。


色分けする言葉で最も古いのは、日本では白・黒・赤・青の4色だけだそうです。NHKの「日本人のおなまえっ!」という番組でも、古事記・日本書紀に出てくる色も、この4色だけとのことでした。(6月29日放送)

言葉の発生をたどると、白ははっきりの意味の「著し(しろし)」から生まれました。赤は「明らか」の意味からきています。

NHKの同番組では、白は朝日を浴びて光る湖面の様子を「顕し(しるし)」と表現したことから、赤は日の出に赤く映える山の様子を「明し(あかし)」と、表現したことから生まれた言葉と説明していました。


ところで温暖化のせいでしょうか?  九州・山陰地方は大雨のようですが、関東は雨が少ないようです。東京の今日は梅雨模様ですが、来週はまた梅雨の中休みとか・・・   関東各地の水がめは、水不足が心配されています。



再 幼児教育

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紫蘭 ( 2017, 5.12 写す 狭いわが家の庭を独占する勢い )

S 幼稚園で指導していた頃を思い出しながら・・・

幼児はいたずらが大好きです。大人が止めても、なかなか止めません。大人にとっては大切な品物、散らかされては困る場所・・・ そんなことは関係ありません。また大人が忙しい時でも、仕事をしている時でも、彼らは自分の都合だけを考えて助けを求めにきます。

幼児は何かをやっているのに、自分の興味をひくような面白いことに出会うと、やっていたことを放り出してそっちに手を出します。

大人から見れば、迷惑な行動です。でも気をつけて観察すると、幼児期は新しい事象に出会うと、何故だろう?  どうしてだろう?  と、色々と試行錯誤している場や状況であることが分かります。

園児たちは、遊戯室の大型積み木を持ち出してそれを積み重ね、その上に立ったりそこから飛び降りたりしました。園庭のケヤキの木にもよじ登って、景色を眺めたり枝にぶら下がったりしました。子供は高いところが大好きです。大人は、落ちて怪我でもしたら大変と心配しますが・・・

子供は、未知の世界を求めるために、 遠出をしたり探検に出かけたりします。
危険なことに遭遇しないかと、大人の心配をよそに・・・  帰って来た子供は、まるで大冒険を終えたように満足しています。

砂遊びやどろんこ遊びは、感覚に訴える快さがあります。鬼ごっこや隠れんぼも、体を動かす快感があります。遊びは、子供たちが快感を得るための手段です。だから子供たちは、遊びを繰り返して楽しみます。

いたずらや冒険を繰り返すのも、大事な遊びです。遊びを通して子供たちは成長します。

でも子供たちは、快感を求める遊びから卒業するようになります。やがて彼らは、創造的な活動へと発展して行くのです。

幼稚園(保育園)は、幼児がいたずらや冒険を思い切り出来る遊びの場であって欲しいと思います。危険が本人や他人に及ぶ心配がある時は、もちろん指導されます。でもそれ以前に、子供たち自身に危険を避ける能力が育っているのです。


「人間どう生きるか、どのようにふるまい、どんな気持ちで日々を送ればよいか、本当に知っていなくてはならないことを、わたしは全部残らず幼稚園で教わった。人生の知恵は、大学院という山のてっぺんにあるのではなく、幼稚園の砂場に埋まっていたのである。」 ( ロバート・フルガム )