幼児教育を語るひろば

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気分転換に

今朝8時43分頃、震度6強の激しい地震が東北地方を襲いました。かなりの死傷
者と行方不明者が出ているようです。四川大地震に目を奪われていましたが日本
も地震国、他人事ではありません。 「岩手・宮城内陸地震」と名付けられたようで
すが、災害が最小限に抑えられるように祈っています。


東京駅まで出かけたついでに、「皇居東御苑」まで足を延ばしてみました。NHKの
大河ドラマ「篤姫」の影響で、ちょっとした「大奥」ブームです。それで大奥があった
と言われる、江戸城本丸跡を訪ねたわけです。

「大手門」から入って 「三の丸尚蔵館」の前を通り、天守閣があったと言われる石組
みの跡まで行きました。多分この辺りに大奥があったのだろうと、一巡してみました。
手入れの行き届いた江戸城跡を見渡しながら、当時もこんな風景だったのだろうか? 
と思いを江戸時代に馳せました。

ところで、「大奥三千の美女」と言います。 このスペースに三千人が住む建築物は、
無理のように思いました。 せいぜい千人くらいの住居を造る程度で、いっぱいでは
ないでしょうか?

篤姫のドラマを見ていると、将軍が大奥へ出入りする時に鈴が鳴ります。調べてみる
と、将軍が住まいの「中奥」から大奥へ入る所に「お錠口」があって、その杉戸に鈴を
束ねて吊るしてありました。将軍がお錠口を通る時、鈴につけた下げ紐を引いて鳴ら
したのです。

将軍を出迎えるためと警備の確認を、奥女中たちへ知らせたようです。 それにしても
夫(将軍)と妻(御台所)の住居が違うというのは、不便な話です。

大奥の女性たちは、 ここでどんな生活をしていたのでしょうか? 聞くところによる
と、嫉妬と権力争いに明け暮れする毎日だったようです。いくら封建時代とはいえ、
彼女たちは30歳になるとお役ご免になって(正室も)、人権無視の日本式ハーレム
でした。


話は飛びますが、先日大奥の女性たちが眠る「上野寛永寺谷中霊園」にある「徳川
墓所」の、改葬に伴う発掘調査がありました。その折に将軍の正室や側室が使用し
た化粧道具や文房具など、千点近い豪華な副葬品が出土しました。

13代将軍家定の2人目の正室だった 「澄心院」 の墓も発掘され、百数十点もの
副葬品と現存では最大の墓誌も出土したそうです。(篤姫の前の正室) 

篤姫は、明治16年(1883年)に48歳で亡くなりました。 墓所は寛永寺境内の、
家定が葬られている近くにあるようです。いつか、訪ねてみたいと思いました。


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