続・いのち
アジサイ (6.13 わが家の庭で写す)
梅雨時は、やはりアジサイが似合うようです。アジサイは、ユキノシタの仲間と聞いて驚きました。日本では昔から、海岸近くでガクアジサイが自生していました。江戸時代までは、アジサイと言えば、ガクアジサイのことでした。
今日では、欧米から輸入された品種が幅を利かして、それもどんどん改良されて、
色の鮮やかさを競っています。
だいぶ前に、浅草寺の仏教文化講座で、次のような話を聞きました。
「看護の看は、手を目の上にかざして見るという象形文字です。つまり、手に目があるようにという意味です。ついでに掌(たなごころ)という字は、手の心という意味です。手には心があるということです。」
この話から、いのちを大事にするというのは、それぞれの人々が、手に目があり、手に心があるように、暖かい人間的な生き方をするということだと、私は感じました。
その時、こんな話もありました。
「目の見えない子どもが描いたお母さんの絵は、体からたくさんの手が出ている姿でした。それを聞いた詩人の坂村真民さんは、次のような詩を詠みました。」
目が見えない子が描いた
お母さんという絵には
いくつもの手が描いてあった
それを見たとき 私は
千手観音様の実在を
はっきりと知った
それ以来
あの1本1本の手が
いきいき生きて見えるようになった
異様なおん姿が少しも異様でなく
真実のおん姿に
見えるようになった
ああ 私も手がほしい
ベトナム パキスタンの子らのために
印度 ネパールの子らのために
千手千眼の観音像は一見異様ですが、真ん中の手が2本、両脇にそれぞれ20本、計42本の手があり、手には目があります。その手と目で、私たちを注意深く、優しく見守ってくれているのです。
個人のいのちは、短く、はかないものですが、でも永遠に伝わって行くものです。
あの種田山頭火は、こんな句を残しています。
いつ死ぬる 木の実はまいておく
私たちは後の人のために さりげなく1粒のたねを蒔いておこうではありませんか。
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