幼児教育を語るひろば

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教育再考・2  (障害者施設殺傷事件に思う)

遺伝(素質)か?   環境(養育)か?
人間性は遺伝によって決まるのか?  それとも環境によって決まるのか? 
古代ギリシャの昔から現代に至るまで、長く論争が続いています。

障害者施設殺傷事件の容疑者の人間性を決定していた大きな原因は、遺伝だったのでしょうか?  環境だったのでしょうか?

でも「遺伝対環境」の論争は、あまり本質的な問題ではありません。なぜなら遺伝子は、最近の研究から我々がある人をその人と認識する特徴を決定してしまうものではないことが分かったからです。

それは、単に個性を形成する経験に対する反応を支配しているに過ぎないのです。そして環境の刺激が、遺伝資質のどの部分を抑制し、活性化するかを決める仕組みを明らかにしているのです。だから人間は、受け継いだ遺伝的資質と同程度の自然環境・文化環境が合わさった産物なのです。

ところで、現代ほどストレスや望ましくない生活環境を強いられている時代はありません。人間は、祖先よりも同時代の人間に似ると言われます。環境からの影響、特に悪い環境に対しても適応して行くのです。

自然環境や文化的環境が破壊された中で生活していると、人間性が損なわれることになります。障害者施設殺傷事件の容疑者も、彼の生活環境から大きな影響を受けたはずです。

環境を改善して望ましい人間形成に当たることは、教育の大切な目的です。
然し環境には、その人にとって個別性の面があります。環境は、「その人にとって特別の意味を持つ状況として受け取られる」 という面があるのです。

人は皆独自な人間性を持っているがゆえに、詳しく見れば人間が環境から受ける影響は極めて複雑であると言わなければなりません。

人間の存在の仕方は、環境から影響されると同時に、他方では環境に働きかけるという相互関係を持っています。このような関係を無視して、教育を考えることは出来ません。

教育が環境からの影響を無視できないのと同じように、その対象となる人間の遺伝的素質によって制約されることも、経験上明らかなことです。

教育は、遺伝と環境の二面から見て、一面では可能性の限度を持ちながら、しかもなお無限の可能性を有するという弁証法的な性格を持ちます。(無限の可能性を引き出すために、勇気を持って行動するということ。)

教育は、人が人に対してある意図や方法を持って働きかける行為です。そして人間にとって、なぜ教育が必要であるのか?   また遺伝と環境と教育との関係は、どう考えなければならないのか?  
今回の事件を機に、再考しなくてはならないと痛感しました。



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