幼児教育を語るひろば

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通信簿

修了式・卒業式のシーズンです。子供たちは、通信簿(成績通知表)を貰って一喜一憂している頃だと思います。「通信簿」は、ひと昔前の言葉です。今は、「あゆみ」・「あしあと」・「学びの記録」・・・などと呼ばれます。

最近の通信簿は、教科の成績だけで無く、子どもの人間性や社会性まで評価しています。点数(記号も含めて)や文章で表記するのが普通です。

人間を評価するというのは、大変難しいことです。なぜなら、人間ほど複雑多岐のものは無いからです。例え人間の行為の一部分だけを評価するにしても、そう言えます。

評価を記録するというのは、なおさら大変なことです。記録が不正確だったり、評価者の主観が強かったりする心配があります。

記録が一人歩きしたり (勝手に解釈されたり)、 誤って伝えられたりする場合もあります。過日それを想起させるよな事件が起きました。
広島県府中町立府中緑ヶ丘中学校3年男子生徒の自殺事件です。

彼は1年生の時に万引きしたという誤った記録のために、担任から希望校への推薦は出来ないと言われました。結果的にそれが彼を自殺に追いやりました。

担任や学校側の教育的配慮の無さは言うまでもありませんが、 誤った評価が如何に非教育的であるかを表す事例です。

評価記録は、書いた者の気持ちや経緯がどうであろうと、いったん書かれたものは、もう客観的な記録としてものを言います。

たかが小中学校の評価ですが、進学にも就職にも、さらには結婚にまで、重要な権威ある発言者として影響します。評価の恐ろしさを、十分に心して下さい。
されども評価なのです。

評価はテストの結果だけを最良のものとして扱うと、それだったら詰め込み教育が手っ取り早く、 能率的だとなってしまいます。 特にペーパー・テストには、無理があります。ペーパー・テストは、サンプルです。サンプルで全体を評価するのは、大変危険なことです。

「あばたがえくぼに見えることがある」と言うことは、「えくぼがあばたに見えることもある」と言うことです。見方によって、評価は変わるのです。

私の持論ですが、どんな子どもだって、どこかに他人が真似出来ない光を持っています。その光を見出すのが、評価者の重要な役目です。

何かの理由で、その光が無視し続けられると、子どもはその光を弱めてしまいます。評価の点数や言葉は、そう考えると疎かに扱えません。

評価が子どもを枠付けし、子どもから自信や希望を奪い、子どもの生きがいまで奪ってしまったら一大事です。

評価は裁判の判決とは違います。ましてやギロチンの役目を果たすようなことが無いように、評価する側は心がけましょう!



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