幼児教育を語るひろば

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教えるということ

節分
きょうは節分、本来季節の移り変わりの日ですから、春夏秋冬1年に4回あるわけです。春の節分だけが残っているのは、日本人が農耕民族だったからと言われます。

節分に豆まきは付き物ですから、「福豆」を買って来ました。もう大声を張り上げるのも気恥ずかしい歳なので、小さな声で「鬼は外福は内」と、豆撒きをしました。年齢と同じ数だけ豆を食べるそうですが、それも数が多過ぎる歳です。真似ごとで数粒口にしました。

昔はヒイラギの小枝にイワシの頭を刺して軒下に吊るしたのですが、最近都会では見られなくなりました。
暦の上では明日は立春、24節気の初めです。いよいよ春の訪れですが、5日は雪の予報ですからもうしばらく待たされるのでしょう。


教えるということ
歴史や文化を理解させるためには、教えることも必要です。だからと言って、全て教えることからスタートするのは考えものです。教えればどんなことでも理解される・割り切れる、大人はそう思い勝ちです。

泥棒が来たからといって、犬だってすぐには吠えません。泥棒かそうでないか、判断する手がかりや時間が必要です。

「病人に栄養を取らせなくては」と、食欲が無いのに「食べろ!」と言っても無理です。食べ物を与えるのが大切なのでは無く、病人に「食べたい!」 という気持ちを起こさせることが必要なのです。

教えることが大事では無く、「教えて欲しい」という気持ちを持たせること、つまりやる気にさせることが大事なのです。

教えるという営みには、教える側と教わる側に互いに働き合う関係があります。それは両者が、一つの目標に向かって一定の計画に従い組織化された活動だからです。

働き合う関係が無ければ、「覚えましたか?」・「分かりましたか?」と、いくら繰り返して叫んだところで子どもの理解は深まりません。

子どもは十人十色、一人一人のものの見方・感じ方・思い方・考え方・行動の仕方・・・ みんな違います。でもそれは学ぶ上でとても大事なことなのです。教える側がそれを大事にしなければ、教えは成立しません。

小学生(高学年児)が書いた文です。

 ぼくらの先生の教え方は、変わっています。ぼくらにはひと言もしゃべらせないで、ペラペラと45分間、まるで機関銃のように講義します。ぼくらはその間、よく聞いているようなかっこうをしています。
 先生はおしゃべりが終わると、必ず「分かったか?」と言います。ぼくらはあまり分からなくても、「はい」と答えます。これは先生に内緒の話です。



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