幼児教育を語るひろば

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忙しい先生たちへ

教師になる条件があるとすれば、先ず子どもが好きでなければなりません。言い換えれば、若い世代を教育するという強い意欲・情熱を持っていることが必要です。

次に学問・文化に習熟した専門家(専門職)でなければなりません。特に今日の教育内容は、急速に発達した世の中に対応するため、専門的な知識や技術がより必要になって来ました。

さらに教師は、教育活動によって報酬を得る労働者(職業人)です。教師の待遇や社会的地位は、良い教師を求める上で大事な要件になります。

江戸時代から終戦時(1945年)までは、教師は聖職者という考えが強かったものです。道は教えるが報酬は求めず、精神的な尊敬を集めることが期待されました。(戦後は全面的に否定されましたが)

これらの教師観は、教師のあり方にも関わる問題です。それぞれの教師観は、その時々の社会情勢や教育への期待度によって強くなったり弱くなったりしました。でもこれらは、いずれが欠けても教師の姿を見失ってしまうことになります。

なぜこんなことを書いたかというと、忙しいと言われる先生たちが、どんな教師観を抱くかで今日の教育に対する意欲や力量が変わってくるからです。つまり教師観によって、忙しさもやりがいに変わることがあるからです。

前置きはこのくらいにして、今日教育に対する期待は、先生たちが考えているよりもはるかに大きいと言えます。モンスターペアレンツなどと言われる親が出没するのも、その裏返しの現象です。
この期待に応えるため、どんな教師であって欲しいのでしょうか?

教師は、「教師」という資格に権威があるわけではありません。教師も凡愚な人間に過ぎません。だから教師の職務を果たすには、自らの仕事の重大さに気づいて、常に厳しい自己反省を怠らないことが求められます。

教師が既成の権威にあぐらをかいて、ただ知識を伝授するというような授業では、今日の教育に対する期待から考えても全く無意味なことです。

理屈っぽくなりますが、真理の探究における先覚性と意欲こそ、教師の権威と教育力の原点だと信じます。
くり返しますが、私たち一人一人は凡愚な人間に過ぎません。教育という重要な仕事に携わることの責任の重さを自覚し、職責を汚すことへの恐れを抱いて自己のあり方を正し深めるよう努めましょう!

ところで、教え・教授からスタートすれば、どんな問題も解明出来ます。子どもとは、そんなに簡単に解明出来るものではありません。

本当の授業では、教師と子どもが互いに働き合う関係です。そしてそれが、一つの目標の元に組織されているというものでなければなりません。

教師の側から眺めると、この組織の中に教師の「願い」があり、子どもたちへの「働きかけ」があり、しかもそれが一定の計画に従っているということが重要です。

一方で子どもの側から眺めると、教師の「働きかけ」に対する「反応」があり、「行動」があり、「認識の形成」がなければなりません。

子どもは十人十色、一人一人のものの感じ方・思い方・考え方・行い方・・・ などが、みんな違います。然しそれは、それぞれが人間として生きるための大事な要素です。

その大事な要素を子ども自身にも気づかせて、大切にするようにしなければなりません。そして教師は、その要素を計画的・効果的に教材に活かして、授業の中で子どもたち自身に磨かせるように仕向けます。能力・適正に応じる指導の基本です。

教師も専門職であるからには、プロとしての技術を持っていなければなりません。その技術を磨いて仕事の上で活かして行くと、忙しさは自然と消えて行きます。

それには、健康でなければなりません。自分の健康は、自分で守ります。怠惰・わがまま・無知・無学・不摂生・無節度・・・ など、 心身が不健康だと忙しさに対応出来ません。


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