幼児教育を語るひろば

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教育の本義(3)

デュルケム(Durkheim 1858〜1917年)
教育とは、成熟した諸世代によって未だ社会生活に馴れない諸世代の上に行われる作用である。教育の目的は、全体としての政治社会が、また個人に対して特に予定されている特殊的環境が、子どもに対して要求する一定数の肉体的・知的および道徳的諸状態を子どもの中に現出させ、また発達させることである。

デューイ( Dewey 1859〜1952年)
過去の学校は、教え授ける場所としてのみその意義を持ち、従ってそれは神聖な場所であり、無味乾燥な鍛錬の場所と考えられていた。それゆえ伝統的な教室には、子どもが働く場所はほとんど無く、また子どもが構成し、創造し、活動的に探求するための作業場・実験室・材料・道具、さらにはそれに必要な空間さえもほとんど欠けていた。

子どもの活動性を束縛し、子どもを暗い教室に閉じ込めるならば、子どもは他人の顔色を見て行動する人間になるのである。したがって子どもの”衝動”は、できるだけ尊重され、伸張されなければならない。

学校は、そこで課業を学ぶための隔離された場所では無く、生きた社会生活の純粋な一形態たらしめるところの手段として、考えねばならない。

モンテッソーリ(Montessori 1870〜1952年)
教師は、子どもを自分の仕事に正しく向かわせ、用具の正しい使用法を教える。教師は、新しい困難がいつ子どもに生ずるかに注目する。教師は、子どもに気づかれないようにして、その発達を導いて行く。教師は、見守っており、必要な時にのみ、静かにしかも断固として、秩序を乱したり不親切な行為をしたりすることを中断させるように干渉する。

ホワイトヘッド(Whitehead 1861〜1947年)
教養とは、生き生きとした思想の活動で、美と人間的感情への感受性である。

マカレンコ(Makapehko 1888〜1939年)
子どもたちに対する個別的な接近とは、ばらばらで気まぐれな個人を相手にして、大騒ぎすることでは無い。個別的接近という旗のもとで、小市民的な個人主義的教育をやってはならない。生徒の欠陥を黙認し、盲目的に彼の気まぐれに追従し、彼の性格を肯定したり作り替えたりする代わりに、ご機嫌取りやお調子合わせをやっているような教師は、無能力者である。社会に対して一定の義務を負っており、自分の行為に責任を持っている子どもという人格に対して、容赦の無い要求を提出することが出来なくてはならない。(社会主義体制における集団主義の立場から、児童中心主義的教育に対する批判。)

シドニー・フック(Sidney hook 1902〜1983年)
教育は、批判的で自主的な(independent)思考能力の発達を目指すべきである。

教育は、知覚力(perception)の敏感さ、新しい思想の受容性、他人の経験への想像的同情心を引き起こすように努めるべきである。

教育は、われわれの文化的・文学的・科学的伝統の大きな流れを自覚させなければならない。


ブルーナー(Bruner 1915年〜)
重要なのは学習や研究、あるいは問題解決への態度を養うことである。それには生徒の心の中に「発見についての興奮の感じ(a sense of excitement about discovery)」を起こさせることである。

教師が教材に熱心に取り組む態度が必要であって、教師は教材を深く理解すると共に、忍耐強い誠実さを持つことが要求される。またこれと並んで教材の指示の仕方が重要で、子どもはどんなことでも、彼らに分かる言葉で与えられるならば、大人より早く学ぶものである。


教育とは、本来何であるのか?
先人たちの言葉から、あることが分かってきました。それは、何より国家・社会の道徳的・倫理的要請に影響を受けていることです。

教育は、家庭・学校・社会において、人生の全過程を通じて営まれますが、特に学校教育への期待が大きいのです。学校教育で学んだ知識・経験が、そのまま実社会で役立つのが、現代社会における教育の本義になっています。

女子が教育を受ける権利を訴えて、武装勢力に襲撃され重傷を負ったパキスタンの少女マララ・ユスフザイさん(16歳)は、「教育こそ全てを解決する」と、国連で演説しました。

「教育は政治主義的であってはならない」と、言われます。でも政治の影響を受けることも、事実です。
教育の本義は不変のようで、まだまだ流動的です。


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