幼児教育を語るひろば

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教師論(番外編)

教師論は、いままでにもこのブログで色々取り上げてきました。
ある時は聖職者としての教師を、またある時は労働者としての教師を、さらには専門職としての教師・公教育の担い手としての教師・生涯教育推進役としての教師・求道者としての教師・・・・ など、教師は如何にあるべきか? という立場から、理想の教師像を追い求めてきました。

今回は番外編として、教師と授業を中心に取り上げてみます。
授業は、教師の大事な仕事の一つです。そして、学校教育の中に位置づけられる教育活動です。ですから、学校の教育目標や教育方針を具現化する場でもあるのです。

理屈はともかく、子どもたちを一人前の人間にそだて上げるために、授業は計画的・意図的に行われなければなりません。でも、子どもたちに対する教師の一方的な働きかけであってはなりません。そうかと言って、子どもたちに任せっきりでもダメです。
戦後「児童中心主義」がもてはやされて、教師が居てもいなくてもよいような授業が流行った時がありました。授業崩壊の、走りになりました。

「授業は、授業から始まっては授業にならない。」と、言われます。「上農は土を造る」と言うように、優秀な農家は、田畑の良い土造りから始めます。準備が無ければ、雑草だけが育ちます。つまり、授業は準備で決まるということです。

然し、いくら準備しても色々な子どもがいます。準備にぴったり適応する子ども、どんなに準備しても合わない子ども、子どもは実に多様です。と言うより、それぞれ個性があって、吸収の仕方が違うのです。
授業では、個に応じた指導の工夫も欠くことが出来ません。

さらに厄介なことに、それぞれの子どもを取り巻く人的・物的環境も多様です。授業(教育)は、多種多様な人間関係・物理的環境の中で成り立つものだからです。
ですから1教師の力だけで、授業を展開しようと思わないことです。教師は、教育制度の中の1歯車でしかないのです。教師以外の、多くの教育者・教育的刺激(人間関係や環境)などによって、授業は支えられているのです。

あまり優秀な人は、教師に不向きと言われます。なぜなら、勉強が嫌いな子・出来ない子の気持ちが分らないから、というわけです。

それに、教師はただ教えればよいというものではありません。
元気の無い子がいれば、体の具合が悪いのかな? 夜更しして眠いのかな? 親に怒られたのかな? きょうだい(友だち)とケンカしたかな? 遊び疲れたかな? 何か嫌なことがあったかな? と、子どもの心のひだにも触れて考察する力が、求められるのです。

さらに教師の資質の前提条件として、子どもが好きでなければなりません。加えて、子どもの元気に付き合う体力も必要です。この2条件がクリア出来なくなったら教職を去る時だと、私は現職中いつも考えていました。


  

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