幼児教育を語るひろば

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形而上学

形而上というと、形の無いもの、抽象的・観念的なものを指します。哲学では時空を
超えた世界のことで、感覚ではその存在を理解出来ないものです。
もう死語になっているのではないでしょうか?

アリストテレスは、彼の「形而上学」でこう説いています。

すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する。 その証拠としては、感官知覚
(感覚)への愛好があげられる。 というのは、感覚は、その効用をぬきにしても、
すでに感覚することそれ自らのゆえに愛好されるものだからである。
しかし、ことにそのうちでも最も愛好されるのは、眼によるそれ(すなわち視覚)で
ある。 (出隆訳)

「百聞は一見にしかず」と、言われます。いくら聞いても分らないけれど、一度見ればすぐに理解出来ます。如何に、目の働きが優れているかということです。

そう言えば、目という文字を使う比喩的・慣用句的な言葉は、いっぱいあります。

「目の黒いうち」と言えば、生きているうちにということですし、「目は口ほどにものを
言う」と言えば、目は言葉と同じくらいに、相手に気持ちを伝えることが出来るという
ことです。

「白い目」・「へんな目」・「不信の目」・「ひどい目」・「つらい目」・「目をむく」・
「目の敵」・「目に角を立てる」・・・・ などは、あまりよい意味には使いません。

逆に、「慈愛に満ちた目」・「目から鼻に抜ける」・「目が高い」・「公平な目」・
「目千両」・「目の正月」・「目を細める」・・・・ などは、よい意味に使います。


こうあげて来ると、目のつく言葉は、感情や意志を表すものが多いのに気づきます。
人間には、目による感覚が強く働いているのです。
目を強調する時は、「眼」という字を使う人が多いようです。

国語辞典を見ると、他にもこんな言葉がありました。

「目の保養」・「目にものを見せる」・「目を回す」・「目の色を変える」・「目を見張る」・
「目配せ」・「目を白黒」・「目に入れても痛く無い」・「人を見る目」・「目の上の瘤」・
「目のつけどころ」・「目を喜ばす」・「目もあやに」・「目と鼻の先」・・・・ まだあります。

でも、目の働きや眼力にも限界があるのでしょうか? 
「目も及ばず」(正視出来ないほど美しいこと)、という言葉を見つけました。 
そんな美人に会って見たいものです。


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