幼児教育を語るひろば

幼児教育を語るひろば

再々教師論

小学生・中学生を抱える親たちの集まりで、教師に対する不満話が続出しました。
経験上ごく一部の教師に対するものと分かるのですが、親にすればわが子のことが全てですから・・・
結構厳しいものがあります。主なものを紹介しましょう。

*子どもと遊ばない、会話も少ない。
*子ども中心と言いながら、子どもの欲望や衝動に任せきりで、放任状態になり、
 学級崩壊につながってしまう。
*子どもの様子を尋ねても、抽象的な一般論しか返ってこない。
*受験教育が全てで、子どもの自主性や関心・興味を大事にするような指導が行わ
 れない。
*漱石の「ぼっちゃん」に出てくる、ぼっちゃんや山嵐のような先生がいない。
 良く言えばおとなしい。悪く言えば覇気が無い、やる気が無い。
*上司に逆らっても、自分の考えを主張するような先生がいない。せっかく就職した
 ので、首になるようなことは避ける。自分の私生活を大事にする。 


職業として教師が出現したのは、そんなに古い時代のことではありません。
文化・文明が高度に発展して、学ぶことが多くなってきたので、若い世代に意図的
・組織的にそれを教える必要が生じました。(同時に学校も開設)

そのため文化・文明に習熟し、専門的な識見を持った人に教師を依頼しました。
でも、ただで使うわけには参りません。教師も生活して行かねばなりませんから、
報酬が必要です。
つまり教師というのは、専門的な知識や技術を持った専門職である反面、報酬を
得て生活していかねばならない労働者、という二面性があるのです。

加えて親たちの不満の背景には、「武士は食わねど高楊枝」ではありませんが、
報酬など当てにしない聖職者であって欲しいという期待もあります。

ジョン・デューイ(John Dewey 1859~1952)は、彼の著書「民主主義と教育」で、
学校教育の任務について次のようなことを述べています。(意訳)
つまり、教師の任務に他なりません。

学校は、子どもの住みかとなる小型の社会である。
単に、慣行的な実務や技能を習得する場ではない。
科学的な探究活動が、子どもの生活と結びついて活発に行われる中心的な場で
ある。そこから子どもたちが、人類の歴史的発達の理解へと導かれる出発点でも
ある。 


教育という仕事が、如何に重大であるかを、もっと先生方に主張してもらいたいと、
私は願っています。教育は、一人の人生を左右する力を持っています。
それが積もれば、国家の運命まで左右する力があるのです。

教師の職責を、別の観点から見てみます。
教師は、人類の文化・文明・歴史・伝統・・・・ を、子どもたちの前に立って、伝え
なければなりません。
それは言い換えれば、教師の権威の証でもあるのです。

教師の権威が容認されるには、専門職としての実力を伴うことは勿論です。さらに
自己の人間的あり方を正して、教育という重大な仕事に携わる責任を自覚すること
です。人間的あり方を正すというのは、自己の人間形成に誠実に努力し、常に真理
を探求する心を失わないことなのです。

特に若い先生方に、教師の先輩として望むことがあります。
子どもと共に行動するのはとても大切なことですが、成すべきことは必ず実行させ
る指導力が必要です。

イートン中学校の校訓は、「成さねばならぬことは成せ、成してならぬことは成すな。」
です。そのためには、何のために学ぶのかを子どもたちに理解させて、方向性を示し
てあげることです。

教師論は、このブログでも度々取り上げて参りました。
今回親たちの不満を聞いて、改めて「再々教師論」として補足しました。


コメント

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURLはこちら
http://freesia7.blog10.fc2.com/tb.php/1161-a7cdb365