幼児教育を語るひろば

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再々 教師論

だいぶ前の朝日新聞に、次のような記事が掲載されていました。

わいせつ行為を理由に処分される教員が後を絶たない。文部科学省の調査によると、2015年度は過去最多の195人が懲戒処分された。同省は重い懲戒処分を受けた教員の情報を共有し、処分歴をチェックできる仕組みをつくる方針だ。各地の教育委員会も防止策を練っている。

教師も人間ですから、食欲も性欲もあります。だからわいせつ行為も、人並みに起こしがちです。でも教師がわいせつ行為を起こすと、世間から厳しい批判が寄せられます。わいせつ行為を止める立場にあって、職責上許されない行為だからです。

特に教師の場合は、被害者が児童・生徒の場合が殆どです。被害者は、いずれも弱い立場にあります。そこにつけ込む行為ですから、なおさら許されません。

もちろんわいせつ行為は犯罪です。法を説く者が法を犯すのですから、世間の目がいっそう厳しくなるのも当然です。教師・警察官・検察官・裁判官などは、そんな点が共通しています。


もともと国民の陰の声は、教師に対して厳しいものがあります。それは教師のあり方に、多くの国民が強い期待と関心を持つための反動とも言えます。

教育に携わる者は、この事実を率直に認め、「教師とは何か?」・「教師はいかにあるべきか?」を検討してみなくてはなりません。

明治以降長い間、教師は聖職者として教育に対する熱意や力量を求められてきました。大正7年4月7日付の文部省訓令には、次のように記されています。

小学校教員たらんもの須らく職責の重大なるを自覚し、常に徳操の向上と学力の進歩とに努め、拮据励精其の天職を尽さんことを期せざるべからず。

このように重大な職責を果たすべき教師は、国家統制の末端の役割を担っていたのです。ですから教師たるもの、社会的地位は必ずしも高くなくても、表面は聖人君子であることを求められました。

教師は天職だからと言われる反面、その実は 「デモ・シカ先生」・「サラリーマン教師」・「三ト主義先生」などと、国民から陰口をたたかれていました。

教師がわいせつ行為を起こせば 「それ見たことか・・・」となる背景には、教師に対する不満・不信の声があったからなのです。


それでも教師像は、戦後70年を経て(特に1960年以降)大きく転換しました。現代社会では、教育の中でも ”人間” や ”人間性”の尊重が重視されます。
教育は人間相互の営みだからです。

教師と言えども、完全無欠な人間ではあり得ません。でも教師に求められるのは、自らの人間形成に熾烈な意欲と、一貫した誠実な態度です。

昔から、教育とは魂の交流だと言われます。教師の人格的影響が、教育の最も
根源的で重要な領域と考えられます。

教師も一人の人間に過ぎませんが、職責を果たすには自らの任務の重大さを深く認識し、常に厳しい自己反省を怠らず、熾烈な求道精神を持ち続ければなりません。

教師自身がわいせつ行為の背景を学び、人間性を高める努力を重ねれば、このような事件は減少し、国民からの信頼も取り戻すことが出来るのです。