幼児教育を語るひろば

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三の酉

三の酉がある年は、火事が多いと言われます。理由は分かりませんが、歳末になって慌ただしくなるので火の用心を心がけようとの警告でしょう。

酉の市は大鳥(鳳)神社系の行事と思っていましたが、ここ数年わが家の近くにある八幡様でも、熊手を売る店などが多く出て、参拝者で賑わっています。

酉の市の行事は、神社だけで無くお寺さんでも関わっています。浅草にある長国寺は、「酉の寺」と言われ、酉の日には沢山の人出があります。そう言えば浅草の観音様で、酉の市の日に熊手を買ったことがありました。

熊手は、福をかき集めると言われる縁起物です。熊手に「お多福」のお面が吊り下げられているのもそのためです。稲穂が吊り下げられているのもあります。豊作に感謝する意味が込められているのでしょう。また、熊手は鷲(わし)の指の形に似ています。幸福をわしづかみに出来るというわけです。

火事の話に戻ります。「火事とけんかは江戸の花」と言われました。
江戸時代は銀行も無かったので、火事になると全ての財産を失いました。特にお金持ちの武士や商人は、火事の後が悲惨でした。

一方でお金が無い・失う物が無い庶民は、気楽なものでした。家は間借りですし、焼けて困る道具や家具もありません。かえって、焼けた家の再建で仕事が増えました。特に職人たちは引っ張りだこで、手間賃も上がります。職人で無くても、復興のため多くの人手が必要でした。江戸っ子にとって、火事は景気の使者でした。

だからと言って、放火は許されません。江戸初期、放火犯は火あぶりの極刑でした。あまりに惨い刑なので、後期になると火あぶりは無くなったようです。

火事の時に活躍するいわゆる「火消し」は、人気の的でした。「与力・相撲・火消しの頭」は江戸の三男と言われ、当時の三大スターでした。

火消しは、正式には「町火消」と言います。(武家の火消しは「定火消」と言われ、消防夫をガエンと呼びました。)
町火消に所属する消防夫を、「トビの者」と言います。安政の頃(1854〜59年)の記録(町鑑)では、9079人もいたようです。江戸の町を48に分けて、「いろは48組」と称しました。

身なりもこざっぱりして、いな背で粋な火消しは、江戸っ子の花形でした。「火消しは江戸の花」とも言われました。

三の酉にちなんで、思いつくままに。