幼児教育を語るひろば

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いのちといのちのであい

ホリエモンの愛称で人気があった ライブドアの堀江社長が逮捕されました 若い人たちの 憧れの的だっただけに 残念なことです 違法があったかどうかは これから裁判等で 明らかになって行くことでしょう
でも 「お金さえあれば 何でもできる」 という彼の考え方には 賛成できません 
「いのち」は お金では買えませんから
なぜなら いのちには 心があるからです さらに 人柄・志・精神・思想・信仰・愛情・喜怒哀楽の感情などがあります

子どもは生きています 
子どもは伸びたがっています
草の実が地におちて 芽生えの条件がそろうのを
待ちこがれているように
こどもも伸びたいいのちを はちきれそうにたたえて
伸びる条件のそろうのを 待ちこがれています
むずかしい世の中です 伸びる条件がそろうのは
容易なことではありません
しかし せめて誰かが 自分のいのちに
そっとふれてくれたらと
子どもはそれを 待ちこがれています

これは 「東井義雄著作集」に載っていた言葉です (著者については下記参照)

私が 教師として 少しマンネリ化してきた頃に 出会った本です 
当時は 教育理論を振り回して 自己満足していました そんな私に 喝を入れてくれました 何よりも 理論では無く実践の記録です
子どもの声 親の声 先生方の声が 直接聞こえてきました

東井氏は 教育の問題を 人間関係のあり方の問題として捉えています そして 
子どもたちとの出会いは いのちといのちの出会いだと言っています

子どもは生きている そんなことは当たり前だ 分かりきっている しかし この当たり前は 素晴らしい当たり前だと思うのです 詩人北原白秋は 「ばらの木に ばらの花さく 何ごとの不思議なけれど」 と申しました ばらの木に ばらの花が咲くのもすばらしい「あたりまえ」 だと思うのですが 子どもが生きていることの「あたりまえ」は
もっともっとすばらしいことだと思うのです

彼は 子どもを こんなふうに捉えて 次のように書いています

今 私たちは あまりにもあわただしい生活の中にいます そのあわただしさが 日毎に 人間の「であい」を困難にしています 人と人とが 「顔」を合わせることは 日毎にその機会がふえて行っていますが 「であい」は 日毎に粗末になっています

これを書いたのは 1972年です 今の時代にも 当てはまるような気がしませんか?

さらに東井氏は 卒業式の式辞の中で 次のような話もされています (ちょうど大学紛争を中心に 色々な学校が荒れていた頃です) 

今の日本の青少年の姿を マンガにでも表してみたら どいうマンガが出来上がるでしょうか 難儀苦労をよけて ずるずると伸びてしまった徒長枝のように ひょろ長い体 家の仕事もせず 自分から進んで さまざまな問題を乗り越えたこともないから 筋骨薄弱 右手も左手化して白く細い 自己主張だけはよくやるから 口は発達して とがって 天狗の鼻のように突き出ている 他の人の言うことは 教師の言うことであろうが 親の言うことであろうが たとい仲間の言うことであろうが 聞こうとしないから(今さわいでいるような大学生のように)耳は退化して 正に無くなろうととしている 矯慢の鼻は 顔中を占領し 目の玉は 憎しみと 不平不満にとび出して 怒視状を呈している そういうマンガが出来るのではないでしょうか

なんだか 今も昔も 少しも変わっていないようですね

でも 著者は 常に子どもたちを信じて 分かってやる心 言葉 知恵を持つように訴えています 次のような 彼の詩があります

やんちゃ者からは やんちゃ者の光
おとなしい子からは おとなしい子の光
正直者からは 正直者の光
きちょうめんな子からは きちょうめんな子の光
男の子からは 男の子の光
女の子からは 女の子の光
光いっぱい

 (記)
*東井義雄 1912年兵庫県生まれ
 兵庫県八鹿町立八鹿小学校校長を最後に退職
 「ペスタロッチ賞(広島大)」 「平和文化賞(神戸新聞社)」
 「小砂丘忠義賞(日本作文の会)」 「教育功労賞(文部省)」 等受賞
*東井義雄著作集 全7冊 別巻3冊 (明治図書発行)