幼児教育を語るひろば

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社会性を培う

社会性(社会生活をうまくやっていく能力)と人間性(人間らしさ・望ましい人柄)には、共通点があります。

社会性を培うためには、私たちが社会の一員として文化財を(学問・芸術をはじめ有形無形の文化的価値を有するもの全て)積極的に受容し、身に付けることが重要です。

デューイ ( 1859〜1952年・アメリカの哲学者・教育学者 ) は、 教育をコミニュケーション( 人間が互いに意思・感情・思考など伝達し合うこと )と考えました。

彼によれば、社会集団を構成している個人は生と死を繰り返し、新しく生まれた未成熟者は、成熟者との間のギャップを埋める必要がありました。これによって大人の生活は子供に受け継がれ、社会集団はこの更新の過程を繰り返しながら存続していくと言うのです。

未成熟者が成熟者になるということは、社会性を身に付けるということに他なりません。


「人間は社会的動物である」と、言われます。私たちの存在は、社会を離れて考えることは出来ません。

「アベロンの野生児」という話があります。

 1799年、真裸で木の実や根を食物として、一人森の中で生活していた少年( 11〜12歳 )が発見されました。4〜5歳の頃に親に捨てられ、それから放浪生活を送っていたと考えられます。
 発見時、言葉や社会的習慣は失われていました。手に負えないくらい注意力は散漫で、適応性を欠いていました。身体機能や器官も、正常に発達していませんでした。

この野生児を正常に戻すために、イタール ( 1774〜1838年・フランスの医学者・障害児教育の草分け )により、野生児の教育プロジェクトチームが組まれました。

野生児は、ヴィクトールと名付けられました。イタールが重視したのは、彼に社会生活に興味を持たせることと社会的な接触を増やすことでした。

結果的には、この試みは失敗に終わりました。5年間教育しても言語機能は獲得されず、社会性の回復も無かったのです。最終的には、知的障害児・自閉症児として処理されました。


人間は自然の状態に放置されると、動物と変わることがないということです。その能力においては、動物よりかえって劣ることが分かります。社会性の欠如は、人間としての成長に大きな障害となるのです。

人間は社会の中で他の人々と交わることにより言葉を覚え、生活技術を身につけ、道徳や宗教の感情を心に植え付けるのです。社会性を培うということは、人間らしさを育てることに繋がります。



再々 教師論

だいぶ前の朝日新聞に、次のような記事が掲載されていました。

わいせつ行為を理由に処分される教員が後を絶たない。文部科学省の調査によると、2015年度は過去最多の195人が懲戒処分された。同省は重い懲戒処分を受けた教員の情報を共有し、処分歴をチェックできる仕組みをつくる方針だ。各地の教育委員会も防止策を練っている。

教師も人間ですから、食欲も性欲もあります。だからわいせつ行為も、人並みに起こしがちです。でも教師がわいせつ行為を起こすと、世間から厳しい批判が寄せられます。わいせつ行為を止める立場にあって、職責上許されない行為だからです。

特に教師の場合は、被害者が児童・生徒の場合が殆どです。被害者は、いずれも弱い立場にあります。そこにつけ込む行為ですから、なおさら許されません。

もちろんわいせつ行為は犯罪です。法を説く者が法を犯すのですから、世間の目がいっそう厳しくなるのも当然です。教師・警察官・検察官・裁判官などは、そんな点が共通しています。


もともと国民の陰の声は、教師に対して厳しいものがあります。それは教師のあり方に、多くの国民が強い期待と関心を持つための反動とも言えます。

教育に携わる者は、この事実を率直に認め、「教師とは何か?」・「教師はいかにあるべきか?」を検討してみなくてはなりません。

明治以降長い間、教師は聖職者として教育に対する熱意や力量を求められてきました。大正7年4月7日付の文部省訓令には、次のように記されています。

小学校教員たらんもの須らく職責の重大なるを自覚し、常に徳操の向上と学力の進歩とに努め、拮据励精其の天職を尽さんことを期せざるべからず。

このように重大な職責を果たすべき教師は、国家統制の末端の役割を担っていたのです。ですから教師たるもの、社会的地位は必ずしも高くなくても、表面は聖人君子であることを求められました。

教師は天職だからと言われる反面、その実は 「デモ・シカ先生」・「サラリーマン教師」・「三ト主義先生」などと、国民から陰口をたたかれていました。

教師がわいせつ行為を起こせば 「それ見たことか・・・」となる背景には、教師に対する不満・不信の声があったからなのです。


それでも教師像は、戦後70年を経て(特に1960年以降)大きく転換しました。現代社会では、教育の中でも ”人間” や ”人間性”の尊重が重視されます。
教育は人間相互の営みだからです。

教師と言えども、完全無欠な人間ではあり得ません。でも教師に求められるのは、自らの人間形成に熾烈な意欲と、一貫した誠実な態度です。

昔から、教育とは魂の交流だと言われます。教師の人格的影響が、教育の最も
根源的で重要な領域と考えられます。

教師も一人の人間に過ぎませんが、職責を果たすには自らの任務の重大さを深く認識し、常に厳しい自己反省を怠らず、熾烈な求道精神を持ち続ければなりません。

教師自身がわいせつ行為の背景を学び、人間性を高める努力を重ねれば、このような事件は減少し、国民からの信頼も取り戻すことが出来るのです。



全国学力調査

文科省は、28日全国学力調査の結果を発表しました。同時に各教科(小→国・算,  中→ 国・数)の都道府県ごとの平均正答率を公表しました。

成績を公表する可否は、学力調査がスタートする時から話題になっていました。成績が良ければどこからも文句は来ませんが、悪いとあちこちから意見や批判が殺到します。

学力調査は、現場の教師間の評判はよくありません。 「競争心を煽る」・「序列化を招く」・「差別を生む」などが、その理由です。

文科省は、学力調査の目的を二つあげています。一つは、学力の実態を把握して、授業の改善に生かすこと。一つは、国や自治体が、教育行政を検証する材料にすることです。

でも一般的には(特にマスコミでは)成績の順位に目が奪われてしまって、大事な目的は二の次になりがちです。


そもそも 「学力」 とは、何でしょうか?     手元にある辞書や教育資料を見ると、次のような説明がありました。

*学習や訓練によって獲得した知的適応力。
 *習い・覚え・体得した知識によって養われた能力。
 *学習によって達成された能力、特に認識能力。
 *学校教育を通して身につけた知的能力。
 *学習によって達成された能力。特に認識能力。
 *学業成績として示される能力(実力)。
 *基礎となる学ぶ力。
 *学習して得た知識・能力。


要は、学習によって得た知識・能力のようです。 だから「学力」は、後天的なものです。「学力が高い」と、「頭が良い」の違いもこの辺りにあります。


「教師」の発生は、ソクラテスの時代に( B.C. 5世紀頃 )ギリシャのアテナイで活躍した教師群「ソフィスト(sophistes)」に遡ると言われます。彼らは金持ちの子弟に、学力をつけるのが仕事でした。

ソクラテスは、知識の切り売りをすると彼らを嫌い、「知識を金で売る者は、学問屋と呼ぶ。」と言いました。

現代でも、学力を売り物にしている教師がいないとは言い切れませんが・・・


話が脱線しましたが、文科省はそれを懸念したのかどうか?    「確かな学力」という言葉を使って、学力向上を訴えています。

確かな学力とは、知識や技能はもちろんのこと、これに加えて学ぶ意欲や自分で課題を見つけ、自ら学び、主体的に判断し、よりよく問題解決する資質や能力等まで含めたものだと言います。


学力調査で、指導上の課題を見つけて授業改善に生かすことは、悪いことではありません。でも平均正答率の公表などで、成績にこだわる風潮を煽るようになるのは感心しません。

「ゆとり教育によって学力が低下した」 という批判から実施されるようになった学力調査です。すでに10回目となりました。 この辺りで学力調査自体を評価し、改善の余地が無いか検討するのも無駄ではないと思います。



平和学習

きょうは、広島「原爆の日」です。広島に原爆が投下されてから、すでに72年が経過しました。平和祈念式典のテレビ中継を見ていましたが、広島は72年前と同じように夏の日差しが照りつけていました。

松井広島市長は、平和宣言の中で「原爆は絶対悪である」と言いました。72年前、 原爆が投下された日の様子を「正に地獄」と表現し、 為政者は本気で核兵器廃絶に取り組んで欲しいと訴えました。

先月国連で「核兵器禁止条約」が、 加盟国122カ国の賛成によって採択されました。 核兵器禁止は、被爆国日本の長年の願いだったはずですが、 アメリカの核の保護下にあるため日本政府は採択に参加しませんでした。

広島・長崎の被爆者は、 日本政府の態度にもちろん失望し落胆しました。  でも国民の間からは、あまり批判の声があがらないのはなぜでしょう?  平和に慣れすぎて、核兵器の怖さを忘れてしまったのでしょうか?  気になりました。


平和公園内の「平和記念資料館」が、リニューアルされたと聞きます。 展示物や展示場の劣化もひどくなり、従来の展示法では不十分なところも出てきたようです。

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原爆ドーム ( 平和公園で 2017, 6. 2 写す ) 

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動員学徒慰霊塔 ( 平和公園で 2017, 6. 2 写す )


平和祈念式典では、子供代表の「平和への誓い」もありました。広島の子供たちは、小学校時代から原爆投下の背景や核廃絶への取り組みを「平和学習」で学びます。ですから広島で育った私の二人の孫たちも、「平和学習」は身近な存在でした。

2006年8月6日、私は広島の娘の家に滞在していました。当日二人の孫は、原爆の日の「平和学習」のために登校しました。

孫たちは、広島市教委が作った「平和への誓い」という文書が収められたレターファイルをもらって帰宅しました。私はその一つをもらって帰京し、今でも大事に保存しています。

「平和への誓い」には、次のような一文があります。

  世界中のどこの国も「平和」であるために、今必要なことは、自分の考えを伝えること、相手の考えを受け入れること、つまりお互いの心を開くことです。人間は言葉をもっています。心を開けば対話も生まれ、対話があれば争いも起きないはずです。
  そして、自分だけでなく他の人のことを思いやること、みんなと仲良くすることも「平和」のためにできることです。



きょうの子供代表の誓いの言葉にも、この思いは受け継がれていました。
広島の子供たちは、「平和学習」が身についています。でも東京の子供たちには(広島・長崎以外と言った方が適切か?)、馴染みの無い学習です。

然し最近、「平和学習」を広島・長崎以外の人たちにも学んでもらおうという動きがあります。東京でも、大学生が中心になって声をあげているようです。「平和学習」の輪が、全国に広がって行くことを願っています。


自然災害でもそうですが、直接経験しないとその怖さが分かりません。ましてや原爆の怖さなど、広島・長崎で生き地獄を目にした被曝者にしか分からないことです。

核兵器の怖さは、長期に渡り放射線を放つことです。被曝から72年も経っているのに、未だに白血病や癌を発病する人がいます。

72年も過ぎると、多くの被爆者が他界してしまいました。怖さを伝える人が少なくなりました。核の怖さが、風化してしまうのが心配です。


広島への原爆投下から72年目の「原爆の日」、「平和への誓い」を新たにしたいと心から願っています。



夏休み二題

夏休みの短縮
全国的に小中学校の夏休みが、短縮される傾向だと言われます。 理由はゆとり教育の改正後、授業時間数が増えたためにどこかで補う必要が生じたことに依るようです。

それに小学校では、2020年度から英語が正式な教科になることも挙げられます。授業時間を確保するのに、夏休みを短縮するのが早道というわけです。

夏休みを短縮して授業時間を確保すれば、通常の1日当たりの時間数を減らすことが出来ます。 そうなれば教員の長時間労働も緩和することが出来るので、一石二鳥ということになりす。

確かに授業時間は確保出来るのですが、実際に夏休みを減らされる子供たちはどう思っているのでしょうか?  決まりの多い学校生活から解放されて、ノンビリ自由を楽しむ時間が持てる大事な時期ですのに。

夏休みは、海や山へ出かけて自然と親しむ良い機会です。 田舎へ行って、昆虫採集や植物採集に夢中にもなれます。家でゴロゴロしていても、友だちと遊びに出かけても、授業の心配はありません。

子供たちには、夏休みならではの体験もあります。 彼らにとって夏休みは、出来るだけ一杯あった方がよいのです。

夏休みの短縮は、そう考えると大人の都合だけで決められたような気がしてなりません。


英語が正式な教科に(小学校)
教え子で小学校中堅教師の M が、「この夏休みは、英語の研修会で缶詰になります。」と、ボヤいていました。2020年度から、小学校で英語が正式な教科となります。そのための準備のようです。

各地の教育委員会では、 英語力の高い教師の確保に力を入れることになりました。採用試験で英語力が高いと認められれば、加点されたり一部の試験を免除されたりします。英語が苦手だった私など、とても採用されそうもありません。

小学校で英語の指導が必要かどうかは、昔から議論されていました。従来は「小学校では、まず日本語をしっかり学ぶべきだ。」が、主流派でした。

ひと口に英語力と言いますが、英会話に重点があったように思います。
「日本人は、中・高・大学と英語を10年間も学んでいるのに、 会話が得意でない。」 と、よく言われます。

だから 「英語で大事なのは会話力だから、言葉は低年齢の時から教えた方がよい。」 ということになります。


以下は私の個人的な意見ですが・・・

小学校時代は、日本語をしっかり学んだ方がよいと思います。世界でも難語と言われる日本語です。表現も多様ですし(文字もカタカナ・ひらがな・漢字とある)、意味も使い方も複雑です。その上、言葉自体に奥深いものがあります。

日本語の獲得は、日本人としての思考の土台づくりでもあるのです。 全ての学習の基礎となります。もちろん英語力習得の基礎にもなります。英会話をマスターするのは、中学校以降で十分間に合うと思います。


英語嫌いの逃げ口上でしょうか・・・