幼児教育を語るひろば

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ランドセル重くない?

すでに、来年の新入生向けランドセル商戦が始まっているとのことです。

最近はゴールデンウイークや夏休みになると、孫のためにランドセルを買い求めるおじいさん・おばあさんの話題が、マスコミを賑わします。

ところでランドセルの重さは、1年生で平均5Kg 余になると、今日の朝日新聞オピニオン欄で伝えています。1日の最大量は、9Kg 弱にもなると言います。(首都圏の小学生を対象に調査・大正大学白土健教授による調査から)

ランドセルの中に入れる教科書の重さも、小学3年生で約2150g、40年前は990g だったので約2.2倍に増えました。

そう言えばこの頃の教科書は、サイズも大きくなり、ページ数も増え、カラーページが多くなったので、重量もバカになりません。

一部の学校では、「置き勉」と称して、教科書や教材を学校に置いておくのを認めています。さらには、家庭によっては教科書を自費でもう1組買い揃えて、自宅に置いておきます。

いずれも、家庭と学校の間を、重いランドセルや教科書を持ち歩きしなくて良いようにしているのです。


私も現職時代に、小さな体の1年生が、重い大きなランドセルを背負って、フラフラ歩いて登下校する様子に、交通事故にでも遭わなければ良いが・・・ と、心配したものです。

逆に5.6年生になると、ランドセルが小さくなったように見えて、子供の体形にも合わないように感じました。 子供たちも教材が増えたので、手提げ袋や
サブバッグを別に持参するようになりました。

そんなわけで、ランドセルは実用的で無いのでは?  と、思ったこともありました。

ところが、意外と親や子どもたちには人気がありました。日本の教育文化の象徴的存在? だったのでしょうか、それとも商業策戦が浸透していたせいでしょうか。

確かにランドセルは丈夫で長持ちします。兄弟姉妹2代に渡って使用した、と言う話をよく聞きました。革製品なので見栄えも良いし、色々なカラーのランドセルがあるのも魅力のようです。

ただ値段が高いのを嘆く声は、多く聞かれました。数万円という値のついた、高級ランドセルもありました。裕福なおじいさん・おばあさんがいない家庭は、大きな支出になりました。


教科書の重さが増した裏には、教科書会社の「より大きく、見やすく」という思惑もありました。最近は小学校だけでは無く、大学の教科書もサイズが大きくなり、ページ数も増え、カラー化して豪華になっていると言われます。


教科書の重さに比例して、子どもたちの学力も向上してくれると良いのですが・・・




言葉 あれこれ

言葉とは、人の気持ち・情報などを伝え合うために用いる音声や、時には文字を指します。

言葉は心の使い

心に思っていることは、ごく自然に言葉となって出て来ます。ですから言葉は心の中の思いを表現する手段と言えます。「口は心の門」とも言われます。

ただ、乱暴な言葉や難しい言葉では、心の思いは通じません。正しい言葉・優しい言葉・丁寧な言葉が、心の使いとなるのです。

言葉は国の手形

言葉は、国によって違います。同じ国でも方言や訛りがあります。その人の生まれた国、あるいは故郷の証しとも言えます。

その人の方言や訛りで生まれた国や土地を知ることが出来るので、言葉は国の手形と言われるのです。外国で隣に座った人が日本人と分かったら、思わず話しかけてしまうことでしょう。

手形を大事にしましょう!

話上手は聞き上手

子育てで、とても大事なことです。

話し上手と言われる人は、自分だけしゃべったり、人の話をさえぎったりするようなことはしません。

親も先生も、子どもの話にはしっかり耳を傾けて聞くことが大事です。子どもは、話を聞いてくれる人を信頼します。大人の考えを押しつける前に、先ずは子どもの主張を受け止めてあげましょう。

子どもの話の聞き上手は、子どもの話に調子を合わせる・うなずく・同意する、 これがコツです。つまり相槌を打ちながら聞くことです。

ほめ言葉と叱責

ちょっとした大人のほめ言葉が、子どもを励ますことがあります。逆に心にもない叱責が、子どもを傷付けることがあります。

大人の言葉は、子育てに大きな力を持つのです。つまりは、大人の言葉はその人の人柄・考え方・たしなみ・心ばえ・・・ を、表しているのです。

御託を並べても、子どもは聞く耳を持ちません。

武士に二言は無い

子どもに約束しても、平気で破る大人がいます。子どもの方は、約束を忘れません。実現を期待してますが、いくら待っても、大人から何の反応もありません。それでも子どもは待っています。

催促すると「もう少し待て」とか、「次の機会に伸ばす」とか・・・
再約束しても、また期待外れです。
このようにして、大人への不信感がだんだんと深まってしまいます。

例え相手が子どもでも、解決策は一つです。「した約束は、必ず守って実行すること!」です。出来ないなら理由をはっきり言わなければいけません。初めからダメと分かっていたなら、はっきり断って我慢させることです。

しかし基本的には、約束の秤を釣り合わせるためには、実行の分銅が必要なんです。

思うこと言わねば腹ふくる

腹ふくるは、怒りを感じることです。子どもだって言いたいことがあるのに、なかなか言い出せずにいると、ストレスが溜まります。

思いが内に溜まると、家庭内暴力や校内暴力に発展しかねません。思い内にあれば色外に現わるです。

口には関所がありません。自由に発言する機会を作ってあげましょう。

ただ自由であるがゆえに、人にものを言う時は、丁寧な言葉・正しい言葉で話すように、言葉を慎むことを教えましょう。



一粒の種を蒔く

「いつ死ぬる木の実はまいておく」  放浪詩人種田山頭火の句です。

いつ死ぬかわからない。けれども一粒の種は蒔いておこう。 
という意味だと思います。最近私はこの句の奥深さに感じ入っています。

私が今一粒の種を蒔いても、残念ですが大木になるのを生きているうちに見ることはできません。教育もこれに似ていると思います。

子育てもそうではありませんか?
私たちにできることは、子供たちの心に一粒の種を蒔くことです。

私たちは、どんどん歳をとって行きます。そしていつか50年・100年の時が経つでしょう。

蒔かれた種は、子供たちが育つ過程で、様々な環境や体験を肥料にしながら大きく成長して行きます。やがてそれは、つぼみを持ち花を咲かせ実を結ぶのです。

私たち大人は、自分の人生の中で少しでも喜びや幸いと感じることがあったら、それを子供たちに伝えるべきです。それこそ、私たちにできる一粒の種を蒔くことなのです。


5月は、素晴らしい自然の恵みに包まれる季節です。わが家に隣接する公園にも、イチョウやケヤキの大木の根元に、タンポポ・ハルジオン・ノゲシ・カラスノエンドウなどの野草が、ひっそりとそれでも誇らしげに咲き競い合っています。

木々の緑は、日ごとにその濃さを増して行きます。雑草たちも、オミナエシ・ヒルガオ・ヌスビトハギなどが、咲く順番を待っています。

どの植物も、それぞれが個性的で自立しています。みんな一粒の種から育って
行ったのです。


ところできょう5月3日は、憲法記念日です。1947年(昭和22年)5月3日に、現憲法が施行されました。

まだ日本は、戦争の被害から立ち直れないでいた頃です。新しく施行された憲法は、戦後復興のための一粒の種でもあったのです。

今、憲法改正の声が盛んです。中には憲法の中身をよく知らないで賛成・反対を唱えている人もいます。

安倍首相は2020年には改正したいと張り切っていますが、きょうの朝日の社説では、改憲を語る資格あるのか?  と論じています。


いずれにしても1947年に蒔かれた種が、どう成長したのかを見届けてから、改憲を判断したいと思っています。

  
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    紫蘭 ( 2018, 5. 2 写す )



教育 思いつくままに (2)

教育の第一義は、子供のためであり、それは人間教育につながります。
そして子供の魂に関わる、きめ細やかな仕事なのです。

教育に携わる教師に求められる大事な資質は、教育のプロ 即ち専門職であるということです。

そのためには、教師は授業の準備に時間をかけ、先手先手と人的・物的環境を整えます。指導に当たっては、忍耐強く継続してゆるめないで、高度な教育技術で粘り強く、生活化まで児童生徒を導くことが大事です。

教育技術の最大の武器は、教師の言葉です。言葉は人格の表現です。「巧言令色
少なし仁」、寸鉄で人を刺します。教師の言葉で子供は変わります。それは学級
(学年・学校)をまとめる力になります。


子供が担任して欲しい(指導を受けたい)教師像は ?

ひいきせず、ユウモアがあり、体育が得意で(運動が好きで)、 勉強の教え方も
上手(授業が楽しい)、そして物知りな先生。


教師の言葉・行動・服装・生活態度は、直ぐに子供に反映します。爽やかなおしゃれを心がけましょう。形は内なる心の表れです。子供たちは、色々な角度から理想の教師像を求めています。

良い教育は、徹底した授業研究(教材教具・指導法)から生まれます。子供たちに、無駄のない、無駄をさせない教育を心がけましょう。


子供は教師(大人)の言う通りにはなかなかなりませんが、 教師(大人)のする
ようには直ぐになります。目的達成を徹底するときには、心しなければならないことです。


評価という名を借りて、子供の自信や希望や生きがいまでも奪ってしまうことがあります。評価は客観性に裏付けられたものでなければなりませんが、子供を枠付けしたり判定したりするもので無いことを、忘れないで欲しいものです。

どんな子供でも、他の子が真似のできない光を輝かせています。教師がその光に気づかないで無視すると、光はだんだん消えて行きます。


ルソーの言葉 (エミールから)

大人になるまでは、子供は子供であることを自然は望んでいる。この順序をわたしたちが転倒させようとすると、熟しきらない風味も無い。直ぐに腐ってしまう速成の果実を成らせることになろう。

子供には子供特有のものの見方・考え方・感じ方があるものだ。それに変えて、わたしたち大人のものの見方・考え方を押し付けるくらい、愚かしく無分別なことは無い。



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 サツキ (温暖化の影響か?  皐月を待たずに満開)

 

教育 思いつくままに (1)

25日付朝日新聞教育欄に、「きょうの授業 加工品から生鮮品 広がるニーズ」というタイトルで、東京海洋大学食品冷凍研究室が、不可能と言われてきた生ウニの冷凍に取り組んでいる授業が紹介されていました。

今や冷凍食品は家庭の食卓に欠かせない存在ですが、同大学の教育がそれを支えていることを知り、教育の奥深さ・広さを再認識しました。

東京海洋大学鈴木徹教授の言葉。

学問の世界で諦めはありません。生ウニの冷凍・解凍も「できない」が業界の常識でしたが、粘り強く取り組むことで、もう少しで成功しそうなところまできました。それが研究の魅力でもあります。



改めて、教育について 思いつくままにいろいろ考えてみたいと思います。

精神の解放そして自由を説いたルソーは、エミールの中でこう述べています。

「子供が教育を受けるのは、人間の義務を学ぶためである。」 と。
つまり我々が教育を受けるのは、人のために役立つことを学ぶためなのです。


ともすると人は、自分の権利のみ主張しがちです。でもよく考えると権利と義務は盾の両面で、権利の裏には必ず義務があるのです。

いずれを表あるいは裏と考えるか?  人によって考えが別れますが、世のため人のために尽くすという人間としての義務を果たすことで、権利が生きてくるのではないでしょうか。


世界には多くの国があり、ある時に興り、またある時に滅び去った歴史を持っています。それらに共通なかことは、国民が高い理想を抱いて義務を遂行した時は栄え、理想を失って権利のみ主張した時には滅びました。

今日すべての国が教育に力を入れ、多くの人々が教育を受けようとするのも、目先の利益のみ追求するのでは無く、人間の義務を学ぼうとしているからです。


本当の教育とは、 授業の中で「教師」と「子供」が互いに働き合っていて、しかも
それが一つの目標の元に組織されているというものでなければなりません。

教師の側から眺めると、 この組織の中に教師の「願い」があり、子供たちへの働きかけがあり、しかもそれが一定の「計画」に従っているということが必要です。

一方子供の側から眺めると、教師の働きかけに対する「反応」があり、「行動」があり、「認識の形成」がなければなりません。


子供は十人十色、一人一人ものの見方・感じ方・思い方・考え方・行い方が違います。しかしそれは、それぞれが人間として生きるための大事な要素・基盤です。
能力・適正に応じた教育が求められる由縁です。