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幼児教育を語るひろば

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死生天にあり

例年のことですが、年末になると友人・知人関係者の訃報が届きます。生も死も、人知では思うままにはなりません。

仏教徒は、生死をどう捉えているのでしょうか? 
真宗の考えを調べてみました。

「歎異抄五章」には、次のような記述があります。

親鸞は、父母の孝養のためとて、一辺にても念仏まうしたること、いまださふらはず、そのゆへは、一切の有情(心あるもの)はみなもて世々生々(幾度も生まれ変わる間)の父母兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に仏になりてたすけさふらふべきなり。わがちからにてはげむ善にてもさふらはばこそ、念仏を廻向(自己の善を他のためにと振り向ける)して父母をもたすけさふらはめ。ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いずれの業苦にしづめりとも、神通方便(衆生救済のはたらき)をもて、まづ有縁を度す(救う)べきなりと。云々。

亡くなった親の供養を子孫が勤めるのは、人間として当然の心情です。けれども親が他界した世界と自分たちが生きて活躍している世界には、すでに越えられない境があります。

でも人間は、長い時間をかけて何べんも生まれ変わることが出来ます。つまり、現在の生の直後に次の生が待っているのです。仏教の死生観として、忘れてはならないことです。

だから念仏者( 仏の教えを信じ行動する人・真宗では 本願を信じ『信』念仏を唱え『行』仏になる『証』 )は、仏となって縁ある者を救いなさい。念仏はそのためにあるのです。単に父母の追善のためにあるわけではありません。

こうすることは、他力の法を自力の善とすることになります。これは、念仏の徳を限定するものではありません。かえって死生の境を超えて、無限に開け行く道を教えています。


死ぬことは仏になることで、現在の生の後には次の生があり、人間は幾度も生まれ変わることが出来ると説いています。


キリスト教徒は、生死をどう考えているのでしょうか?

聖書の言葉に、次のような一節があります。(「伝道の書」より)

天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。
生まるるに時があり、死ぬるに時がある。
植えるに時があり、植えたものを抜くに時がある。
殺すに時があり、いやすに時があり、
こわすに時があり、建てるに時がある。
泣くに時があり、笑うに時があり、
悲しむに時があり、 (以下略) 伝道の書・第三章

良き名は良き油にまさり、
死ぬる日は、生まるる日にまさる。
悲しみの家に入るのは、宴会の家にはいるのにまさる。
死は、すべての人の終わりだからである。
生きている者は、これを心にとめる。
悲しみは、笑いにまさる。
顔に憂いをもつことによって、心は、良くなるからである。
(以下略) 伝道の書・第七章
(日本聖書協会版より)

生死は天命です。悲しみは少しずつ減って徐々に癒えていきます。だから意図的に意識を転換することが大事です。

親しい人の死と出合うことは悲しいことですが、ただ嘆き悲しんでいないで、自分がこれからどう生きるかを考えましょう。死から学ぶことで、本当に大切なことは何かに気づくことが出来ます。

悲しみの中でも、気分転換を図りましょう。友だちと出かけたり、何か新しい事に挑戦するのも良いでしょう。少しずつでも、プラス思考で行動することが大切です。


仏教徒もキリスト教徒も、死を単に悲しみの対象としてだけではなく、前向きに受け止めようとしていることが分かります。


訃報を見ながら、生死について考えてみました。



歎異抄 追記

前回の「毒薬変じて良薬となる」についての補足です。

唯円の言いたかったことは、次のようなことではないかと「歎異抄」から推察できます。


人間は常に不安と苦悩を抱えていて、それから逃れようとしています。そのために、知識と道徳を身につけるように努力しています。

けれども知識は生活の知恵は与えてくれても、生死の不安を取り除いてはくれません。そのため知識と共に、不安はいっそう増してきます。

また道徳は、どんなに学んでも、自分を善に他人を悪にする心情を捨て去ることはできません。

そのため煩悩は益々増長し、人は罪悪を重ねることになります。だから自力では、人を救うことができないのです。

人間は、不安と苦悩からどうしても離れることができません。悲しい人間の性です。だからこそ阿弥陀様は、広く人々を救おうと願っておられるのです。

阿弥陀様は、「弥陀の本願(人々を救おうという願い)は、老少善悪の人を選ばず、ただ信心を要とすると知るべし。」と教えられています。


親鸞聖人が説かれるように、老人が救われないなら少年も救われません。また善人のみ救われて悪人が救われないのも、人の道から考えれば許されません。

人間は、自他の差別を超えて平等なのです。全ての人は、差別なくつながっているのです。お互いに、深い縁があるのです。

それを差別するから、煩悩を生じ罪悪を重ねることになるのです。そして煩悩は、炎のように燃え上がり、罪悪は益々深く重くなってしまうのです。


阿弥陀様の願いが明らかになれば、人間生活の道も開かれます。然しその根底にあるのは、信心の心です。人智の及ばない阿弥陀様の願いを理解するには、その願いを受け入れる信じる心によってのみ可能なのです。

歎異抄第一章では、「しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆへに。」とあります。

念仏とは、「南無阿弥陀仏」と唱えることです。念仏は、ただ心に念じれば良いというものではありません。「身の行」とすることが求められます。行動が伴わなければダメということです。


唯円は、信心の心があれば、人の道を見失うことがないと言っているのです。



毒薬変じて良薬となる

「歎異抄」第三章の言葉です。

善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をやと。
(以下略)

「歎異抄」は、親鸞の直弟子と言われる唯円が、親鸞の死後その教えが正しく伝えられていないことを嘆いて、正意を伝えようとしたものです。善いことを為すのが善人、悪いことから離れられないのが悪人です。

悪人には、悪行から離れられないという悲しみがあります。また善人には、自分の力で善事を為す力の限界を知らない限り、仏(阿弥陀様)の身元に近づけないというもどかしさもあります。

でも悪人は、もともと他力にすがって生活していますから、死後は容易に生まれ変わることが出来ると言えます。と、親鸞聖人は説かれています。


阿弥陀様は、常に広く衆生を救われようと思っておられます。老少善悪の人を選ばれずに、いかなる人も漏らさずに「罪悪深重、煩悩熾盛の衆生を助けん」と、願っておられるのです。

愛と憎しみとの煩い悩みの熾盛(火が燃えるように盛んなこと)なのは、人間の現実です。だから分かることは、人間は罪悪が深重だということです。

その煩悩の心を救ってくださるのが、阿弥陀様なのです。


私たちは、新聞記事やテレビの報道番組で、毎日のようにこのような悪事・悪行を見聞きします。

いじめ・セクハラ・虐待・暴力・詐欺・盗み・危険運転・傷害・殺人・・・
グローバルな目で見ると、人身売買・掠奪・侵略・地域紛争・戦争・・・ 
と、心配の種は絶えません。


悪に強ければ、善にも強いはずです。大悪人がひとたび善人になれば、その善行も大変スケールの大きいものとなるはずです。何れにしても、悪に使う知恵や力を、善行のために使って欲しいものです。



晩秋

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 カキ
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 ミカン
  ( 2018, 11. 20 いずれも近くの農家で写す )


明日は「小雪」ですが、温暖化の影響か? 今年は冬の訪れが遅いようです。


   落葉

  秋の日の
  ヴィオロンの
  ため息の
  身にしみて
  ひたぶるに
  うら悲し

        ( ボール・ヴェルレーヌ  上田 敏 訳 )


今年は野山の果実が豊作なので、高崎山の野生猿たちが、餌を求めて人前に出て来ないと言われます。「稔りの秋」ですから、自然が豊かなのは結構なことです。

子どもたちは、「稔りの秋」をどう見ているのでしょうか? 生活の中から、直接見たり触れたりすることによって、感覚的に季節を捉えているのではないでしょうか?

秋が赤いカキの実であり、赤トンボであり、夕焼けの美しさであるのでは?
あるいは、お盆のようなお月様・月見団子やサツマイモ・クリご飯かも知れません。

何れにしても、事象の中から見たり触れたりして感じ取るのです。
これは、とても大事な活動です。特に幼児期は、その感覚を研ぎ澄ます時期なのです。


今朝、庭に出て気がつきました。枯れかかったシランの葉っぱに夜露が降りて、しずくになって地面を濡らしていました。寒さが厳しくなれば、多分霜に変わるのでしょう。

過日甲府まで行った折に、「月のしずく」というお菓子を買い求めました。
月明かりに照らされた夜露から、この名が付けられたそうです。秋にだけ出て来るお菓子だと聞きました。


猛暑と台風の夏でしたが、いつの間にか晩秋も去ろうとしています。



失いたくないもの

季節は晩秋ですから、北国からは雪の便りが届く時期でもあります。これから年末にかけて、日本でも様々な行事が営まれます。作物の収穫を感謝する行事などは、世界各地で催されます。

11月23日は、勤労感謝の日です。昔は「新嘗祭」と呼ばれ、天皇がその年の新米を神に捧げ、収穫に感謝しました。農業国日本としては、重要な行事の日でした。

似たような行事は、アメリカやカナダでも行われます。「サンクス・ギビング・デー」がそれで、祝日になっています。

特にアメリカでは盛んで、11月の第4木曜日がその日です。カナダでは第2月曜日が祝日になっています。

アメリカに移住した開拓民は、困難にもくじけず荒地を耕し、農耕に励んで農作物を収穫出来たことを神に感謝しました。この日は七面鳥とカボチャのパイを食べる風習があります。


11月には、「酉の市」が3回あります。初酉を一の酉(1日)、次を二の酉(13日)・三の酉(25日)と呼びます。

三の酉まである月は、火事が多いと言われます。寒くなる季節ですので、火の用心を心がけるようにと注意しているのでしょう。

「酉の市」は大鳥神社(鷲神社)に由来する行事です。足立区花畑にある鷲大明神(鷲神社)近辺の農民の収穫祭が、発端だという説もあります。


日本古来の国民的行事も、近頃はマスコミが伝える行事として知る程度になりました。直接参加したり体験することも、少なくなりました。残念です。子どもたちも、親が教えなければ関心を持ちません。


「故きを温ねて新しきを知る」、孔子の言葉「温故知新」を分かりやすく読みくだしたものです。「昔のことをよく調べて、そこから新しい知識や道理を発見しなさい。」と言うことです。


いま日本の家庭では、伝統的な行事をどう扱っているのでしょうか?

親孝行は「母の日・父の日」のプレゼントで済ませ、助け合いは「赤い羽根募金」で終わりとしていないでしょうか?


益々多様化し忙しい現代ですが、古い行事を大切にしたいと思います。伝統的な行事には、子どもたちがそれを体験することによって、成長するための栄養がたくさん詰まっています。

大人になった時に、それが物事を考え判断する基礎になるのです。私たちの生活の中で、失いたくないものです。


これから七五三・忘年会・クリスマス会と、楽しい行事が控えています。でも年賀状を書いたり、すす払いや大掃除をしたり、他にも冬至や年越しの行事などが、年末にかけてめじろ押しです。

伝統行事を活かして、家族皆んなで有意義な生活を心がけましょう。